このやっかいな、

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ファンではない自分がなぜこうも毎日SMAPの事を考えているんだろう。

SMAPの解散報道がでてから、不思議な感覚の日々を送っている。

なんでこんなに彼らのことを考えているんだろう、と。

 

自分はオッサンで、SMAPは普通にテレビを付けて出ていれば見る程度の関わりなのに。

キムタクの演技はいつも同じだと文句を言っていたし、かっこ付けてる割に頭わりいじゃねえかいいともSPでラブシーンをLOVE SEANと書いてたのは見逃さなかったぞ、とか斜めに切り込んだつもりでぶつぶつ言っていた。

 

今は前よりSMAPの凄さと楽しさが分かってきたとは言え、何でこんなにSMAPのことが気になるんだろう。

(この先、草なぎの彅をそのまま書いています。環境によってはちゃんと見えないかも。) 

 

きっと、応援する人たちが居て、応援される側がそれに応えようとしている関係性の楽しさを知ってしまったからじゃないかと思っている。

 

「気づくと」ももクロを好きになってしまってから、アイドルの楽しみ方が分かってきた。そうなるとSMAPの凄さや面白さも見えてきた。

 

キムタクが2枚目という役回りをたぶん公私ともに引き受け続けていること。

中居くんがアイドルと3枚目ポジションを華麗に行き来してることと、大事なことを消して逃さないでいること。

吾郎ちゃんが不思議キャラのように扱われてるけど、バラエティ見てると草彅が一番空気も読まずに相手をぶっ潰すひとじゃないのか。

ところで香取君はマルチにいろんなことできるのにどこかでもっと本気出せば凄いんじゃないのか、なんか手を抜いているように見えるんだが、テレビ以外の活動を知らないからか。

吾郎が年上男性と半同居していることをファンタジー込みでお知らせするとは、さすがSMAPチームだなあと感服してた。

自分の浅いSMAPイメージはこんな程度。

 

* * *

謝罪会見を生放送で見て、ネットでいろんな記事や、ファンのブログを見ている毎日。ずっとSMAPを気にしている。

何が本当か分からないけど、「ジャニーさん」と「メリーさん」とかいう人がかなり独裁者的なんだな、と思っている。

木村が事務所残留を決め、他の4人が育ての親のマネージャーと共に事務所を退社するはずだったが、SMAP解散を避けるために、4人がメリーだかジャニーに謝罪したらしい。

 

4人が悪者みたいな描かれ方をした謝罪放送だった。

木村「ただ前を見て進みたい」SMAPコメント全文 - ジャニーズ : 日刊スポーツ

 

40歳も超えた大人が夢を売るはずのアイドル事務所のいいなりに動き、全国に対して謝罪をさせられるという、そら恐ろしい映像だった。

メンバーの中にはまだまだ溝もあるんだろうし、木村が事務所側に立って他の4人を従えたように見える会見だったけど、果たして木村はそういうことをする人だろうか。

他の4人も、ただ事務所に対する謝罪を伝えに顔を出したのだろうか。

 

ジャニヲタではないので、彼らのこれまでの軌跡や性格なんてほとんど知らない。この方が想像するほどのファン経験は自分にはない (拝啓、SMAP様~いま、SMAPに伝えたいこと~ | La pantoufle de vair)

けど、自分なりには勝手に思い描いている「真実」はある。

 

長いことやっていればいろいろあるだろうし、解散という選択も「間違い」でもないだろう。アイドルをやめるタイミングだって大事な問題だろう。

 

確かに中居は年末、信頼する松本人志がやっている「すべらない話」と「笑ってはいけない24時間」に出演して、ジャニーズ事務所のタレントとは思えないようなことをしていた。ジャニーさんの誕生日でジャニーやマッチが君臨する様を揶揄するような話をしていたし(面白おかしく演出して話してはいるだろうけど)、女性芸人とディープキスをしていた。これはジャニーズとの距離を取ろうとしていたからなのかなという気もした。

 

ただ、このまま5人が割れて「空中分解」してしまったら、アイドルというファンタジー自体が壊れてしまう。

(まあ、すでに事務所とテレビ局がそれを壊しているけど)

中居くんは笑っていいとものグランドフィナーレで「バラエティの終わりは寂しい」と言っていた。

多くのアイドルは終わりが寂しくなりがちだけれど、SMAPの終わりがこのまま寂しいものになってしまってはいけない。

 

* * *

あれだけ2枚目を引き受けてきた木村が、共演者やスタッフに気を遣う木村が、もし奥さんのささやきがあったとはいえ(あったかどうかはしらんが)、木村が正しくて4人が間違っているというスタンスに立ちきるとはおもえない。彼が最も嫌う仁義にもとる行為なんじゃないのか?

(そこまでキムタクを知らないのだけど、そんな気はしている)

いくらまだ問題の渦中であり事務所の力が強くて自分たちの言葉で語れない時期だとしても、そのまま受け入れて事務所にわびを入れる会見をするだろうか。

 

確かに、中居は歌が下手だとか踊れないとか夢を壊すようなことを敢えて言うし、稲垣は年上男性と半同居していることをお知らせして世間を驚愕させているけど、本当のところは分からないというファンタジーは必ず残している。

 

* * *

そう考えると、あの会見もジャニメリ帝国の軍門にくだったかのように見せるための会見だったんじゃないのか?

あんなに疲弊した目を見せて、ファンを夢から醒ますような会見をしているのも、今後のための前振りなんじゃないのか。

いまは力を蓄え我慢するしかない、時を待つしかないのだけれど。

立ち位置と表情で、あの会見が本意ではないと伝えていたんじゃないだろうか。

木村と中居は共に、勝者と敗者を演じ合っているんじゃないか。

スラスラと話しすぎることで、自分の言葉ではないことを稲垣は伝えているんじゃないか。

言葉を詰まらせたことで、行間を伝えたいんだと感じさせた香取に、

立ち位置と順番、つねった手とため息で、尋常ではないことを最大限伝える中居。

事務所に謝罪したから此処にいると、芸能記事でしか聞いていなかったことをさらりと言葉にしてしまう草彅。あれが言わされた言葉だったとしても自分の言葉だったとしても、あの言葉が現役のトップアイドルから出てくること自体が異常だと分かる。

 

* * *

深く知りもしない一般のテレビ好きとしては、こんなことを夢想している。

(木村はタイムリープしているとか、草彅がアンドロイドだとかいう話ほど想像の翼を拡げられないのが残念)

 

今後のSMAP5人の人生はどう見積もってもジャニメリより長い。

木村が事務所サイドに立ち、他の4人との主従関係を作ったように見せつつ、「前を見て進む」ために耐えている。

木村が事務所との関係を最悪なものにしないために4人への盾となり、他の4人も翻って従ったと見せつつ、あの会見はレジスタンス宣言なんじゃないのか。中に戻って冷遇されたとしても、時を待つ。

そういうのことわざで上手い言い方なかったっけ?

 

木村と中居の過去最悪の関係になっているって記事もあった。

そうだとしても、お互いの将来をそれぞれの尺度で考えたから結論が違ったんであって。

周りからのしかかる圧力を取り除くことが出来るなら、

大事にしたいものは一致しているはずなんじゃないのか。

 

* * *

夢を売るはずの事務所がそれをぶっ壊した。

「夢から醒めるファンが良識的なのか、夢から醒めないファンが真のファンか」という問いがあったけど(SMAP解散報道について - それは恋とか愛とかの類ではなくて)

 

SMAPファンではない外野からすると、目が離せないのはこれからだと感じている。

ファンタジーをぶっ壊してまで守りたいものがある事務所と、「みんなのSMAP」を守った5人。

まったくもって真実と虚構が不明ではあるけれど、ファンの思いとSMAPの思いが重なっている箇所ははっきり見えている。

「みなさんの言葉で気づいたこともたくさんありました」(草彅)「これからの自分たちの姿を見ていただき」(稲垣)、「これからもよろしく」(中居)
SMAPがどれだけみなさんに支えていただいているのかをあらためて強く感じました」(中居)
「何があっても前を見て、ただ前を見て進みたいと思いますので、みなさんよろしくお願いします」(木村)

ファンの言葉や気持ちは確実に届いているし受け取ってくれている。

 

様々な事情をさておき、混沌としている中で、ファンタジーを壊すような姿を見せてさえもあの会見を開いた5人の覚悟と決意を感じた。

ファンとの繋がりを一番大事にしているという宣言。信じて待っていて欲しいという言葉。

SMAPで居続けることを願い、何を置いてもそれに応えた5人だった。

 

今はあまりにもドロドロとして、現実を忘れるためのアイドルではないのかも知れない。

夢から醒めちゃうかも知れない。

けど支えるなら今だろうし、共に乗り越えるのは今だろう、とも思う。

そういう時なのだと思ってファンを続けられるなら、ファン冥利に尽きるんじゃないのか。

 

とはいえ、自分の好きなももクロが同じようなことになったらどう思うかは、話が凄すぎて想像さえつかない。

こんな悠長なことは言ってられず、悲しみに暮れ、怒りに飲まれているかも知れない。

でもすこし引いた立場だから思うのは、こんなにファンとアイドルの気持ちが繋がっていると感じられることはないんじゃないかと思う。

そうやって考えるとすこし「嬉しい」出来事だったりするかも。「嬉しい」という言葉がぴったりした表現ではないけど。

これほどまでに事実が分からないって、ファンタジーそのものじゃないか。

っていうのは単なる言葉遊びかもしれない。けどそこを信頼と想像力で埋めてこそとも思う。

相手を信じるという力強い“ファンタジー”を行う時なのかなと。人を信じるっていうのは、事実を超えた強い気持ちを持つことだろう。もしかするとそれは思い込みかもしれないけれど、それさえも引き受けるのが信じるということなんじゃないかなと。

 

あそこまでの姿をさらしながら、アイドルグループを続けることを選んだ彼らが、これから先どういう夢を見せてくれるのか、ファンタジーを提供してくれるのか。そもそも提供出来るのか。

このまま、ゴシップと「あの人は今の」の谷に落ちていってしまうのか。

人や会社との対立・諍い、契約問題。きらびやかな世界とは無縁で、まるで普段の暮らしで体験する煩わしさの中にいる5人。

 毎日の大変さやうさを一時だけ忘れてくれる夢ではなく、地に根を張るような力強いファンタジーを紡ぎ出す5人になるんだろうか。生活者でありながらファンタジスタ。

 

本人たちや熱心なファンには過酷な道だろうけど。 

SMAPが新たなファンタジーを創る。その未来を見ていたい。

 

 

どうやら今回のことでSMAPファンになったかもしれない。

 

 

* * *

こちらにも記事を載せています。

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パリコレとコント。キングオブコント2015感想。「芝居」や世界観がリズムや音楽に負けたわけではない。

芝居やストーリーのコントは死んだのか? キャラとリズムにかき消された?

今頃だけれど、キングオブコントの感想をつらつらと。

設定と展開。大喜利の答えの面白さと、その後拡げたイメージの面白さ。パリコレのデザインから考える。

 

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KOC直後このブログがはてブ人気エントリーになっていました。"キングオブコントは死んだ - 僕が本当に面白いと思うこと。 キングオブコント2015"。

コメントを見ると、お笑いファンとテレビ好きのギャップが垣間見えます。

ユウキロック氏のこんなtweetも見ました。

いろんな方に準決勝の話を聞く。コロコロチキチキペッパーズとバンビーノは受けが飛び抜けて良くなかったらしい。しかしこの結果。ライブシーンとテレビのズレ。滑稽だがわかりやすいネタ。そして「個」の強さ。極論だが「お芝居」のKOCは終わった。

プロの言うことだし、括弧付きの“「お芝居」のKOCは終わった”という言葉にどんな意味があるのかを完全に理解することはできないけれど。

たしかに今回KOCは、芝居やストーリーに光が当たらなかったように見える。芸人が審査しなくなり、番組の質は変わったかも知れない。

でもお笑いをマニアックに見る自分にとっても、番組として面白かったし、コントも面白かった。

 キャラとリズムに芝居や展開がかき消されたわけではない。

自分はややマニアックなお笑いファン。

自分はただのお笑いファン。素人がプロの技にごちゃごちゃ何を言ってんだって話だけど、見る側として思うところはあるわけなので、評論したいと言うより、あくまで自分の好みです。

どっちかと言えばマニアックにお笑いを見る方。地方だからあまり数は見られないけど、好きな人の単独ライブには行っている。

残念ながら終わってしまったミレニアムズで言えば、キャラものやギャグものよりは、ねたみやそねみが見え隠れするものが好き。

年齢を重ねてきて、昔はいじめっ子感が強くて楽しくなかったとんねるずも面白がれるようになってきた。

松本人志が大好きなので、ベタなものよりは発想が凄いと感じさせるものやシュールなものを求めるような体。

ラーメンズも好き、って言っちゃうと、ああって思われちゃうかも知れないけど、ばかばかしいのも好き。最近になって王道やベタや団体芸の凄さが分かってきたように思う。

好きなコント

自分の好みとしては、設定がしっかりあって人物の関係性を踏まえてストーリーが展開していくコント。

今回そういうネタは少なかったように思うが、自分の求める「展開」というのはストーリーに限ったことではない。そのネタの設定世界の中で展開していくのも面白い。ストーリーや芝居だけを求めているわけではない。

そうはいってもKOCで言えば2009年にチャンプになったときの東京03のネタが自分の好み。

仲の良い友だちの女(豊本)と飯塚、角田の3人で温泉旅行に来るが、角田が豊本演じる女性に告白してしまい、フラれてギクシャクしてしまうというネタ。

「何で初日に告白するんだよ!まだ3日もあるんだぞ!」という飯塚のツッコミは、その状況で魂の叫びとしてしっくりきてカタルシスが大きかった。

関係性やストーリー展開もありつつ、テンポも良い。テレビサイズとしてチューニングを念入りにしたんだろうと勝手に考えている。

審査することをコンテンツに据えたKOC 2015

テレビ番組としてキングオブコントを考えると、実際に浜田と審査員のやりとりは面白かった。

審査員があの5人と発表されていることで期待感も上がって視聴率が良かったのかも知れない。

審査をすることの難しさと厳しさ自体をコンテンツとして見せたのが今回のKOCだったのでは、と思っている。松本が「難しいよね。漫才より差が出ちゃう」って言ったけど、このセリフにこめた芸人なりの演出を差し引いて考えても、漫才コンテストよりコントの方が審査は難しいのだろう。と素人ながらに考えている。

去年までのシステムでは決勝に上がれなかった参加芸人と松本・浜田とのやりとりが見所の一つだったけれど、今年は5人に限定されていることで、「浜田 vs 審査員 のやりとり」という軸がさらに際立っていて楽しかった。

松本は別にして、M-1THE MANZAIで審査員を務めた大竹以外はコンテストの審査員は初めての経験。松本はすでにレジェンド的立ち位置だけれど、他は松本との比較では“中堅”(と言うにはベテランだが…)ポジション。

松本に加えて、さまぁ~ず、バナナマンというテレビの現役プレイヤーだけで審査員を構成したことで緊張感は増した。テレビの今が切り取られる配置がされていたように思う。

 

一応得点表。色は審査員別に、太黒字と赤字は番組全体を通しての最高と最低。色セルは1回目、2回目別々での1位〜3位。

こう見ると、設楽は他の4人と少し違う基準で見ているかも。

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総合格闘技としてのコント

松本が開始早々「難しいよね。漫才より差が出ちゃう」と言ってた。ジャンポケのネタの後、「ネタ(の方向性)も違うし、まず人数が違うからね」と冗談ぽく言っていたけど、コントを審査する側の本質的な難しさを表現した一言だったようにも思う。

ピン芸コンテストのR-1ほどではないのかもしれないけれど、漫才に比べればかなり「バーリトゥード」(何でもあり)的なのがコントなんだろう。

芝居、ストーリーのコントは死んだのか?

今回のKOC、審査方法も変わりストーリー重視のネタ・コンビが選ばれなかったことから、これまでのキングオブコントの終焉だと言う論調もあるけど、僕はそうは感じなかった。

確かにストーリー重視のネタが評価されていなかったけれど、そのネタのストーリー展開自体がきちんと構築されていなかったからだと思っている。

たとえば、さらば青春の光の「芸術家」ネタ。

薄っぺらい兄が笑いどころなのか、狂気の方向が間違っている兄を笑うのか、よく分からなかった。 芸術家を目指す兄のセリフが薄っぺらい。一枚も描いていないのだから“薄っぺらい兄”というネタなんだけれど、それにしてはツッコミが普通すぎて楽しくなかった。

狂気にとりつかれているようなセリフもステレオタイプ的だなあと感じた。狂気にとりつかれた人だと見せたいのか、薄っぺらい人だと思ってもらいたいのかが分からないと思って見ていた。

でもネタの構成としては薄っぺらい兄である必要がある。

兄のセリフは確かにエスカレートしていくのだけれど、底の浅さが分かっていく過程があるわけでもないので、どう見たらいいかわかりづらいなあと感じた。

兄のキャラクターが不明確なので、セリフ上の展開が関係性の上で生じる展開に繋がっていないなあと思った。

その時、その人、そのセリフがハマっているか。=「妥当性」があるか。

東京03の飯塚が「その役の人が言わないセリフはツッコミのセリフにしない」という原則で台本を書いているという話を聞いたことがある。

自分の好みがそこにあるので、アキナやさらば青春の光のネタは、セリフがその状況にぴったりはまっていなくて楽しみきれなかった。

アキナの「鳥」ネタ。

「エンジンかかるのが遅い」という審査員の発言は、スピード感を求めて言っているわけではなく、必要性があったのかということをいっているんだと思ってる。その待ち時間が必要なのかどうかって事だと思う。

最初の笑いを生み出すまでがその笑いにきちんと繋がって一つ一つ積み上がっていけばいいんだけれど、そうは思えなかった。

始まってしばらくの間、ライブに行きたかった側(山名)は状況を説明していた。1人で説明セリフを言っているので、ペットの飼い主(秋山)とのやりとりが生まれない。結果的に構成上の「動き」が少なくなる。

お互いのセリフや芝居を含めたやりとりで見せてくれれば、一つ目の笑いが遅くてもワクワクしながら見られたのになあって感じた。期待感が上がっていかなかった。

ペットの飼い主に付き合ってライブをキャンセルしたという状況にあまり納得できないし、かといってライブに行けなかった山名側に共感できず、この世界に入り込めなかったのもある。

あり得ない状況のコントは他にも山ほどあるけど、何かしらその嘘を信じさせてくれないとファンタジーに乗れない。自分にとってアキナのネタは嘘をファンタジーとして受け取れなかった。

さらに、インコみたいなトリを「鳥は食べ物です」と言われてもあまりしっくりこなかったので、その後「ボンジリ」というフレーズも自分にとっては笑いどころにならなかった。

高評価のネタに、関係性を見せる芝居やスートーリー展開がなかったわけじゃない。

コロコロチキチキペッパーズ。人物像もくっきり、展開もしっかり。

坊主の人(ナダル)の風貌と声のギャップがすでにキャラクターとして強烈だった。

2本目の決勝ネタは西野が目を引く声と動きをしはじめたので、2本だけで違うパターンを見せられ、それまで知らなかったコロチキのことが立体的に見えたように感じた。

妖精(ナダル。役名はリオン)は「泣いたら天空に帰らなきゃいけない」という設定。子ども(西野。役名はたかし)が泣き始めるとお客さんがもう笑っているし、自分もそうだった。形としてはこれの繰り返しなんだろうなあということは容易に想像が付いたのに、とにかく面白かった。

3回目の登場場面で、子どもが妖精に近づくだけでこっち(客)も「あっ」ってなっていた。毎回の展開がテンポ良く畳みかけられ心地よかった。

分かりやすい設定でずっと笑いを起こし続けるってもう最強だとおもう。ドリフに通じるというか。

演技のディティールもあったので、この世界を違和感なく楽しめた。

ナダルは2回目に舞い降りたとき、後ろを振り返って驚いた感じを出す。2回目に泣かれたときにはちょっといらっとしてみせる。天空を意識していたり、子どもに対する感情を見せていたり。

こういうディティールをきちんと積み上げて人物像が見えていた。自分はこういうコントが好みだ。

妖精の感情をこうやって積み上げて見せているからこそ、3回目の登場場面で子どもが「僕は強くなったんだー!」と叫んだときに「なら良かった」とすこし格好付けて妖精が言うだけで笑えたんだろう。

ロッチ1本目。キャラクターと状況とセリフが見事にはまっていた。

ロッチの1本目は設定がどうとか超えていて、同じことの繰り返しが面白かった。

中岡というキャラクターが認知されているからこそだけど、そのキャラ+力の抜けた返事+あのポーズの組合せが綺麗にハマっていた。

バナナマンが1回目のKOCで見せた、朝礼で立っているネタ。設楽が日村にちょっかいを出し続けて先生に怒られることを繰り返すだけのネタ。膝カックンしたり手を上げさせたり。ロッチのネタを見ていて、これを思い出した。

話の流れが大きくあるわけじゃないけど、人物の関係性が伝わってくるので、そこにある世界や設定にスムーズに乗ることができた。

関係性が見えるかどうか

バンビーノ。受け側の反応

1本目、呪文を唱えるのを犬が邪魔する。魔法使いが犬を愛しているのは分かったんだけど、犬が魔法使いをどう思っているかがあまり見えなかったので、ちょっと残念だなあと思っていた。

2本目。マッサージを受けている側が「結構声出ますねえ」と言われて何も言い返さないのは設定上違和感はあった。あそこで2人のやりとりがあると自分的にはもっと好きなんだけど。

好みとしては、曲の流れができあがる前に1~2度なんか言ってくれたらなあって思っていた。

ダンソンのネタも1本目の魔法使いと犬の関係にも共通しているけど、藤田が演じるキャラクターは受け専門なのが、自分的には残念。

ジャングルポケット。キャラの強さ か 展開 か。

1本目は、「親友の彼女と浮気したことは謝って済む問題じゃないから謝らない」とい言って立場を逆転させていくネタ。斉藤のキャラがあるからこそ浮気している側の立場が強くなることが成立するんだろう。

ただ、立場の逆転の展開が「謝って済む問題じゃないから謝らない」の一点だったのが寂しかった。論理がダメなら斉藤の暑苦しさで力技で押し通す手もあるんだろうけど。論理も力技も中途半端な感じがした。

浮気されたおたけと斉藤の間をつなぐ太田がほとんど伝言しかしないのも、展開が少ないと感じた。だからこうした方が良いと思いつくわけもないんだけれど。 この辺りが設楽の言う「3人なんだから話の展開がもうひと山来るんだろうと思ってた」ってことなんだろうか。

2本目。空港に見送りに行きたい部下に対する斉藤部長の気遣いがまったく気づいてもらえないネタ。

これ自体面白いし好きなネタではあるんだけど、斉藤の圧のあるキャラは必要無いように思えて、ジャンポケがやらなくても良いじゃないかと思ってしまう。

2本通じて、「キャラの強さ」でも「芝居やストーリー展開」でもどっちにも振り切っていないように感じた。

ジャンポケはお芝居がしっかりしているし斉藤のキャラクターもあるコンビだけど、今回のネタはストーリーとキャラのどちらも中途半端な感じがしてしまった。

登場人物の関係性が見えてしまえば、多少のことはこっちが埋めてしまうかも。

演技という点では、コロチキ2本目でナダルが一人称を「わい」と言うべきところ「俺」と言い間違っているので、マニア的には「キャラがぶれるんじゃないか」という考えも浮かんではいたけれど、西野の奇異な行動に力があるのであまり気にならなかった。 ナダルの表情と声から相手(西野)を羨望していることが分かるので、関係性も見えた気がした。

設定と展開。「頭で考えて面白いやつ」と「見てて笑っちゃうやつ」

うしろシティ(ゲートボール中に悪魔召喚)やロッチの2本目(ボクシング世界戦)、藤崎マーケットの2本目(お化け屋敷で親に会う)は、その設定が大喜利の答えみたいなもんで、それだけで面白いと思える。藤崎マーケットはネタばらしまでに多少時間があるけど。その状況設定がすでにかなり面白い。

大喜利の答え」から盛り上がる時

大喜利企画で、ある答えからいろんな発想が浮かんで盛り上がるときがある。

お笑い番組ではないけど、10月18日のワイドナショーで、パリコレで人を着るような衣装が発表されたという話が合った。

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中居くんが「自分の彼女が待ち合わせ場所にこれで来たら…」と言うと、松本が「まずこの子を紹介してくれるかな。この人誰?ってことやね」、「まず改札抜けれないからね」と。 こんな感じで、ある大喜利の答えからいろんなイメージが拡がっていく場面をたまに見るけど、これもまさにそれだった。

「人を衣装として着る」という設定(大喜利の答え)があって、イメージがどんどん拡がっていく。

大喜利の答え」≒設定 を超える展開があるか。

うしろシティのネタも藤崎マーケットのネタも、こういうことあったら面白いよなあって思うけど、その後のやりとりがそれを超えられてない感じがした。

ネタの作りとしてはちょっと違うけど、ザ・ギースのネタもネタをリフォームするという設定・枠組み自体が発想としてニヤニヤしてた。

多分、自分も含めてお笑いファンは、こういった世界観のネタが好きだし、設定を知った瞬間にニヤニヤし始める。オチより先に予想で笑う悪い癖ですが ^^;。

メタネタのギース

「説明ゼリフを加えることでコントの入口を分かりやすくしました」と、ギース自身のシュールネタをメタでツッコんでいて、ギースのネタが好きな自分にとってはニヤリとしたけど、今ひとつ面白味が爆発しなかった。

三村に「笑いどころは少ない」と言われて「痛いところ突いてきますねえ」と尾関が言いながら、高佐は「今年一番の最高傑作コントです」というあたり、自虐ジョークでもあるのだろうけど。頭で考えてニヤニヤはするんだけどなあ。

うしろシティの悪魔召喚ネタ

悪魔が老人の寿命と引き替えに願いを叶える、という設定は面白そうっておもったのだけれど、その後の悪魔と老人の対比が際立ってない感じがした。

大喜利の答えを超えるものがなかった感じ。老人と悪魔の間に緊張感がないというか、そこまでの関係が見えなかった。

うしろシティのネタは、思春期の勢いと気恥ずかしさだったり、ナイーブと雑さが同居している感じが好き。

転校生どうしのネタもミュージシャンを目指している人のネタもそう。

2人は微妙な緊張関係の中にいて、そこに漂う微妙な機微を見せてくれるところが好きなんだけれど、今回のネタはそれが見れなかったので、単純に残念だったのはある。

ロッチの決勝のネタ

これも、“ボクシングのチャンピオンが風邪でずる休みをする” と頭の中で考えたら面白い。けれど、設定の面白さを会話のやりとりで膨らませていってないことにもどかしさを感じた。実際にコントで演じてみると、世界チャンプがずる休みする設定自体にちょっと無理を感じたので、その後のやりとりに入っていけなかった。 頭の中にある「こんな事あったら面白いな」っていう設定だけじゃなくて、それを成り立たせる人物設定や状況設定を用意したり、その後のセリフのやりとりで世界観が積み上げられていくコントが見たい。

結局は、「頭で考えて面白いやつ」だけだとダメで、「見てて笑っちゃうやつ」になってないとダメなんだろう。

圧縮と爆発(緊張と緩和)のバランス

巨匠、板前の足がコンクリートで固定されているっていうネタ。これも設定は恐くて面白かった。

設定バレするまでにしばらく時間があったけど。 発想自体は好きなんだけど、「コンクリで固定されて罰を受ける」ってのはあまりにも「重たい」設定だなと感じた。重たくて気持ちが縮こまった

その後に縮こまった気持ちを解放してくれるものが無かったので、見ててちょっとキツかった。

松本が「この設定で行くならもっと面白くないとだめかなと思う。昔の僕なら好きやったんでしょうね」と言っていた。

設定のパンチ力をその後のやりとりやセリフが超えていって圧縮した気持ちを爆発させてほしかった。緊張した気持ちが解放されなかった感じ。

“動き”

三村が巨匠のネタを見て「動きがほしかったかな」と冗談ぽく言っていた。

体を使って笑いを取るものを求めているのか、とか、足が固められて動かないのに何言ってるんだ、っていう意見をネットで見たけど、自分が感じたのは違った。

板前が言っていることが全部似たようなことだったので、この「重さ」を超えるものがないなあと思っていた。

それを超える展開の動きを見せてくれたら、気持ちがキューってなった分、大笑いしたろうなあって。

やっぱり認められたのはリズムネタ?

バンビーノの2本目、リズムネタ部分が盛り上がって行くとき、大喜びしている女性観客が映っていた。実際に決勝ラウンドだけでいえばこのネタが最高得点。

この場面だけ見れば「コントの大会でリズムネタかあ」っていう“お笑いファン的ため息”を出したくなる気持ちも分からないではない。実際自分もちょっと出した。

フレーズが音素が繰り返す「リズム」や音楽を使っているネタが高評価だったのは、決してコントの「芝居」や「ストーリー」要素が軽視されたわけではないと思ってる。

たしかにストーリー展開で見せるネタで大笑いしたのが少なかったのは残念。

高評価だったネタは、その世界がしっかりあったんだと思う。当日その世界がきちんと表されていたネタが評価されたって事だろう。

三村がバンビーノの2本目で「練習量と面白さが群を抜いてる」と言ってたけど、「リズムネタ」としてあのネタを評価した発言とは思っていない。

マッサージの流れでDJをやるという世界を見せるには、テンポやリズムのズレが命取りになる。総合格闘技としてコントを考えたときに、シンクロ率の高さがこのネタの世界を高い所に持っていったことを評価した発言だと考えている。

ただ自分の好みで言えば、さっき書いたようにもっと関係性が見える方が好きだけど。

音楽のテンポと会話のテンポの違い。

「音楽ネタ」「歌ネタ」をコンテストでやるとネットのツッコミが一気に増えるんだけど、たぶんそれはコントのテンポが音楽のテンポに支配されてしまって空白の時間が出やすいからなんだろうと思っている。

それが藤崎マーケットの時に松本が言った「少し時間をもてあましてたかな」ってことなんだろう。

「神は細部に宿る」。

結局は自分が求めているのは、ディティールによって積み上げられた世界観。

「表情やセリフがハマっているか。それらが積み上げられて世界が作られているか」。評価の高いネタはそういうネタだったと思うし、自分も面白がれた。

前の話だけど、2008年のKOCで2700が「ジョニーマーキュリー」というネタ。ツネがエアで隣の人を見る芝居をするんだけど、その時の視線の向きが人の顔がある位置ではなく椅子の座面を向いていた。

彼らはリズムをどうネタに持ち込むかを追求しているコンビなのだろうとは分かっているけど、その瞬間ちょっと興ざめして残念だなあと思ったのを覚えている。

そのネタの世界(ファンタジー)に連れて行くためには、細部まで積み上げてほしい。そういうネタが大好きだ。

予選と決勝の客層が違うのはなんとかした方が良いんじゃないかとは思う。

コントのコンテストで4分なのはいいのかとかは、審査のあり方はどうすべきかってのは置いといて。

いろんなネタを見れたのは番組としても面白かったけど、予選から決勝をひっくるめたコンテストの構造はなんとかせにゃ、演者側が大変だろうなあとは思う。

決勝戦と予選の客層の違いがこれだけあると、別の大会だと思った方がいいんだろう。 先ほどのこのツイートでは、「準決勝ではコロチキとバンビーノの受けが良くなかった」のだそうだ。明らかに客層が違うって事だろう。

いくら審査員がプロで、ネタのみで審査しようとしても、演者の調子は客席の温度で変わるだろうから、そこだけは何とかしてほしい。

若い女性客とお笑いファンを両方いたらダメなのかなあ。

iPad Proは紙とペンを再発明できるか。インターフェースアップデートだったAppleイベント雑感。

9月のAppleイベント雑感。

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Apple II、Lisa 頃からの根っからのAppleファンなので、ファン目線で書いている。

けれどApple製品の全てを手放しで褒めちぎるつもりはないし、Surface Pro 3も気になるしVAIO Z Canvasも気になっている。

iPhoneiPadは情報を閲覧にするは素晴らしいデバイスだけれど、複数のアプリケーションに渡ってドキュメントを作りあげるにはむいていない。

iOSのカーソル移動やコピーペーストの機能は進化が止まっていると思っている。iPadならまだしもiPhoneでのカーソル移動に関しては、やってられない。

コンピュータとはマイコンの頃からのつきあいなので、全てのPC作業をiPad でやらせようとも思っていない。

けど、今回 iPad Pro みてたらちょっと考えが変わってきた。

全部変えました。 “The only thing that's changed is everithing.”

今回のApple Event。事前リークの正確さが増し、One more thing の隠し球を楽しむことは出来なくなって久しい。

今回の “The only thing that's changed is everithing.” というキャッチフレーズは、リークを逆手に取っているようだった。

「予想の通りです、全部変えます」とこれでもかと言うくらいに変えてきた。

変わってないのは筐体デザインだけ。 

One more thingで言うことが残ってないって感じ。

とにかく変えたのはインターフェース。

3D タッチ

iPhoneの3D Touch、iPad ProのApple() Pencil と Smart Keyboard。Apple() TVのタッチサーフェースとSiriリモコン。あとはiPad mini 4とApple Watch。

画面を押し込む動作に別の意味を持たせる3D Touch。タッチの強さでショートカットやプレビューを表示するようだ。

これは使ってみないことには何とも言えないけど、MacBook のTouchpadの二本指スクロールみたいなもんで慣れたら戻れない気がする。

iOS 9+iPadの一部では、複数アプリ同時操作の仕組みが用意されるけど、iPhoneのサイズでは無理があるので解放されていない機能。

小さな画面で他の動作や他のアプリへの連携をとる仕組みを行うのが3D Touchかもしれない。

リモコンとしての Siri

 M9をAX9と1チップ化して消費電力を減らせたからなのか、Hey Siri が電源に接続されていないときにも使えるようだ。Perfumeも出演しているiPhone紹介映像で海外俳優が料理しながらSiriに話しかけていた。手に持っていなくてもiPhoneが操作できる

Apple TV はタッチサーフェースとSiriを載せたリモコン。TVは画面から離れて使うものだから、Siriくん大活躍。

「キーボードと鉛筆の再発明」ってのは言い過ぎか。

iPhone 6s、6s Plus、AppleTV、iPad Pro。様々発表されたけど、印象的なのはSmart Keyboard とApple() Pencil。

まず Smart Keyboard

製品紹介ページを見ていたらワクワクしてきた。

まあ、自分のやったことのアピールが上手い会社だこと。

ナイロンシートにエッチング加工をして導電性を持たせ、電力とデータをやりとり。充電も必要なければBluetoothのペアリングも必要ない。水をこぼしても大丈夫なように作られているようだ。裏地はマイクロファイバー製でiPadの画面を保護して綺麗にする。

iPad Pro 専用に作っているからがっちり割り切りっている。

本体と繋いでいないと使えないけれど、持ち運びの簡単さを考えるとiPhoneや普通のiPadでも使いたい。

Surface Pro のタッチカバーと同じ発想だし類似製品はたくさんあるけど、タッチデバイスに繋げるキーボードとしてはシンプルでよさそう。

打鍵感が分からないのでまだ分からないので、早急に触ってみたい。

そしてApple Pencil

圧力と傾きを検知して、濃淡効果を生み出す。

デモや紹介ページなどを見ていると、クリエイティブプロフェッショナル向けという印象をうけた。

Surface Pro 3 を意識した構成だけど、デモを見ているとVAIO Z Canvas がライバルという気もする。

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タッチデバイスとPCのOSが別であることの意味

今回のイベントで紹介されたOffice、Adobeのアプリ、医療アプリを見ていて感じるのは、PCではないからこそタッチデバイスに最適化したアプリケーションが作られていく期待が持てるという点。

日本人なので何でも出来るデバイスが欲しくなっちゃうけれど、アプリ制作者がタッチデバイスに最適化したアプリを作り込むかどうかにかかっていると考えている。

iPad ProはあくまでもiPadでありiOSで動いているからこそ、Macとは違うアプローチの解決手法 (アプリ) が発明されていくのが楽しみ。

ただ、一台ですまないから散財してしまうという問題が多分にあるのが困りもの。

「紙とペンの再発明」?

感圧タッチ、スタイラスペン。Siriのリモコン的側面の強化。

今までのインターフェースをすべて一つ上のステージに押し上げたと感じる発表だった。

タッチデバイスはコンテンツを閲覧して消費するという傾向が強いけれど、iPad ProにApple Pencil、Smart Keyboardを組み合わせることで、情報を素材として加工して入力するデバイスとして進化した印象を受けた。

「紙とペンの再発明」を目論んでいるのだろうか。本気でそれをしようとしているのはVAIO Z CanvasiPad Pro なのか。

 

* * *

と、書いてみるとファン目線ごりごりだったようだ。

初音ミクは誰のもの?どこにいるの?〜初音ミク初体験で思った事

初音ミク初体験したときの感想。JOINALIVEで初めて見て、面白さのあまりTwitter連投していた。

 面白いなと思ったら、ブクマとかtweetしていただけると励みになります。

ガチ勢に囲まれでドキドキの中ステージが始まった

7月18日の土曜日、毎年行っている夏フェスJOINALIVEで初音ミクのステージを初めて見た。

北海道にゆかりが深いことは知っていたし、VOCALOIDという文化mの盛り上がりがあるのも知っていたけれど、見るのは初めてだった。

屋内のステージで行われるのだけれど、このステージはしばしば入場規制がかかる。なのでSPITZに後ろ髪を引かれながら、開始前10分前に入場した。

入場すると後方の椅子席は満杯で、空いているのは前方の立ち見エリア。スタッフから「出来るだけ前に行って下さい」のアナウンス。

ステージ間近の最前列には緑の光る棒を持った御仁たち。立ち見席後方には「ブシロード」などの文字が入ったTシャツを来た人がいて、「最前列頑張れよー!」のかけ声。

ギリギリにやってきた興味本位の人たちと強ヲタ・ガチ勢が混浴状態で、カオスになりそうな予感。

自分はこの温度差の中頑張れるのだろうか⋯。ちょっとドキドキしていた。

うわ、実体感が凄い。

ドラム、ベース、ギター、キーボードの生バンドがいて、中央には透明なスクリーンが立っていた。

音楽が始まるとスクリーンに光の粒が現れ、集まってミクになっていった。その演出におおっとなり、ミクの綺麗さと存在感に驚いた。

フロアのモニタスピーカーに足を乗せるところは、モニタが本物なのか、モニタも含めて映像なのかよく分かんなかった。それほど、実体感があった。

ガジェット好きでIT好きなので、最初は技術目線で感心して見ていた。

特に実体感があると感じたのは、地面に足を付けたときの身体全体の反作用、跳ね返り。身体全体の揺れが表現されているので、ミクの身体に「重さ」を感じることが出来た。そして重すぎないところも良かった。あれ以上の重さを表現すると、ミクらしさはなくなってしまうのかもなあ、なんてミクの文脈も知らずに考えていた。

ほころびが無いところが逆にリアリティ欠如だと思うほど、音と映像はシンクロしていた。

曲も全て初めて聞くものばかりだったけど、どれも楽しめた。良い曲だなあと持って聞いていた。残念ながら歌詞は聴き取れなかったけど。

曲の変わり目で幕間もなく衣装チェンジしちゃうあたりさすがミクだなあ、なんて思っていた。あれは生身には出来ない。その上、空は飛べるわ、形は変えるわ。

全体を見たくて一段高い場所に移動した。そこにも緑棒勢はいた。

いったい何に向けた声援なんだろう?という疑問

きっとみんな思うことなのかもしれないし、言い尽くされていることなんだろうけど、「プログラムされたものに声援を送るのってどんな気持ちなんだろう」って考えてしまった。声援の先にいるのはエンジニアのオッサンじゃんって。

ここのブログで書いてるけど、自分は良い歳になってから「ももクロ」のファンになった。最初はそんな自分に戸惑っていたが、やがて吹っ切れて、ライブでは光る棒を振り回して声を張り上げている。だから余計に初音ミクの場合どうなんだろうって考えた。

自分にも同じ要素はあるのに、違うと感じる部分もある。そのグラデーションはどこで潮目が変わるのか、何が一緒で何か違うところがあるのか。

生身のアイドルなら、声援の先には声を聞いてくれる対象が存在している。けれど初音ミクの場合、対象は実体ではない。

声援を送ったからといって生身のアイドルやアーティストと違って、相乗効果で盛り上がっていくわけでもない。

AIならばそういうやりとりも可能になるかもしれないし、人格だと考えられれば感情移入できる気がするけど、ミクはAIじゃないし…。

初音ミクの羽根。

それをさらに感じたのは、羽が生えた演出の時だった。

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光る棒を持った人たちが一斉に沸いた。自分はすごく冷静だった。湧いたこととに驚いた。

光の粒が実体化した登場シーンは映像的に目を惹いたけれど、羽根を生やすって見た目にはさほどだし、やろうと思えばそんなのなんでもありじゃん、って思った。

でもTwitterで感想をつぶやいていろんな反応をもらったり見ている内に、ちょっと自分なりに腑に落ちた。

ファンはまた違う考えかもしれないけど、「さあはじまるよ。盛り上がるよ」っていう合図なのかもしれない。

ももクロで言えば、「おっ、『未来へススメ!』やるんだ!」みたいな気持ちなのかも。というよりは、杏果が手袋付けたときの感じか?「Words だ!」みたいな。れにちゃんの咳?。

よく知らないくせに例えるけど、プロレスで言えば大技を掛けるときに手を掲げるようなもんかも。トップロープに登ったときみたいなこと?

ミクに詳しい人からすればもっともっといろんな意味があるんだろう。

実体がないからこそ、誰のものでもないのかも。

生身のアイドルの場合、対象が目の前にいるこっちを見てくれたり反応を返してくれる(レスをもらえる)。

でも生身のアイドルの場合、レスを返してくれるかはお金や運に左右されるところがあるようにおもう。

熱意と時間をかけて、もちろんお金掛けて通っていれば、“いつも現場に来てる”と覚えてもらえるかもしれないしレスの確率はあがる。

けどそれって、運に左右されるところもあるんじゃないか。

その上、対象に認知して欲しくてレスをもらいたくて目立って覚えてもらおうとして、禁止行為をするファンも中にはいる。

ファン同士の間で恨みねたみそねみが生まれることだってあるだろう。他の人がレスをもらって自分がもらえなかったら羨ましいし。

でも初音ミクの場合、レスもくれないし接触の機会もない(あくまで今のところ、かもしれないけど)。

実体じゃないから、妬み嫉みは生まれにくい気がする。“彼女”との繋がりの強さは、ファンその人が持っている気持ちに純粋に比例するのかもしれない。

恨みや妬みがなくて平等だから、ミクとファンを繋ぐ線は絡まりあわずに、ミクを中心においてファンが真円を描けるのかもしれない。

… なんてことを考えて見ていた。

実体じゃないしレスもくれないから、一瞬たりとも誰のものにもならない「自分だけのアイドル」になるのかも。

これってアイドルとしては理想的な一妻多夫制なのではないか?なんて、あれこれ頭を巡っていた。

そんなことを感じさせてくれるミク体験が面白かった。

作り手と受け手の信頼関係

Twitterで教えてもらったのだけれど、初音ミクは受け手が作り手でもあるんだって。

確かに、「歌わせてみた」とかはたくさんあるし、ボカロP(プロデューサー)といって、自作の曲を公開していたりもする。絵を描く人もいるし、演奏する人もいるし、PCのアプリを作る人や電子工作をする人も。作り手と受け手の境界はグラデーションだということらしい。(参考)

実体のない初音ミクファンタジーを一緒に成立させようという合図があの羽根。もっというと、初音ミクの舞台を一緒に創りあげる象徴なのかも。あの場を創り上げるのはファン。ファンタジーを一緒に創り上げるファンのことを作り手(送り手)も信じているから出来ることなんだなあって思った。

ライブの最後の曲は、他のロックバンドと同じようにボーカルがバンドメンバーと呼吸を合わせて演奏を締めくくっていた。その時のシンクロ感がとても気持ちよかった。

ファンタジーの儚さと輝き

そしてこのライブと、Twitterで発信したこととそれに対する反応と、そこからまた考えたこと全部をひっくるめて、初音ミク初体験はとても楽しかった。

初音ミクは受け手がいてこそ成り立つファンタジーであり、受け手がいなけりゃ何も始まらない。受け手は作り手でもあるらしい。

実体がない分、自由度が高い。作品は発表した瞬間から受け手のものだとはよく言われるけど、ミクはもう受けととか作り手とか超えていて、ミクは関わる人の「あいだ」を瞬時に絶え間なく移動して存在しているように思えた。

自分だけのものでみんなのものだから実体はいらないんだ。実体がないからこそ「みんなのあいだ」にいられるのかもしれない。(その時の自分のTwitter)

ファンタジーってのはやっぱりどこか儚さをもっているから人を惹きつけるのか。手で触れることは出来なくて、信じていないとだめで。それが凝縮されていた気がした。

ファンタジーの共有力と、人との共感力

初音ミクを見ているうちに、「ファンタジーの共有力と人との共感力」について考えてはじめてもいた。

一般的にオタクは人付き合いが下手で人との共感性がないっていうふうに思われている。

けれど、ミクというファンタジーを共有する力がこれだけあるのに人との共感性にはつながらないんだろうか、とか、ファンタジーの共有と共感性は似てるように感じるけれど別物なんだろうか、とか。

 

そんなことを職場の50歳を超えたネットやオタクカルチャーには縁の無い「一般人」女性に話したら、「ふつうの人はそんなにファンタジーに入れ込まないかも。映画とかドラマとか、つくりものだって分かっていればその構えで見るけど」っていわれた。

ああ、そういえばそうかもしれない。2014年のフジテレビ27時間テレビSMAPドラマのTwitter感想は、リアルなのか虚構なのか戸惑っていた。「一般人」はリアルとファンタジーの境目がないドラマが苦手なイメージがある。

となると、オタクは自分と人との間に共通の「第3の存在」があると強く繋がれるのか?。

オタクは人と直接つながるのがなんか圧を感じてしまうので、共通の好きなモノを間においてつながる。オタクはファンタジーにハマれる力があるし、ファンタジーを共有して人とつながっている。

自分と相手が直接向かい合うんじゃなくて、初音ミクを間においてV字のように(線の端が人で、線の折れたとがったところが対象物)つながる方が楽なのかも。そしてそれは、Vから円になっていくかもしれない。Vの折れ曲がった部分を中心に何個もつなぎ合わせた  みたいな形に繋がれるかも。

単なる思いつきから思いを巡らせたので、とんでもない誤解をしているだけかもしれないけど、そういうことまで考えたことも含めての初音ミク初体験だった。

自分の感想をTwitterでつぶやいたこと、そのRTやリプライやRT先の反応など、全部ひっくるめて楽しかった。初音ミクの作り手ではないけれど、発信したからこそ得られた楽しさだった。

つながるひとりぼっち。幾つもの世界が共鳴しあう「幕が上がる」。

 

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映画「幕が上がる」の感想。

何ものでもない何か、ひとりぼっちの不安と寂しさが描かれ、それでいて共鳴しあって繋がっていく様が丁寧に描かれていた。他の人の事なんて分からないから、ひとりぼっちだから、繋がろうとする。そうやってわかり合っていく。

スクリーンの中の彼女たちが物語としてもアクターとして成長していくことに、見ているこちらも共鳴していく映画だった。

原作の平田オリザさんが昔テレビで「本当の自分を探すよりも、場面に応じて仮面を付け替える、良い意味で演技が出来るようになることを目指した方が、楽に生きられる、コミュニケーションできるようになるのでは」と言ってたことが印象に残っている。

そんなこともあったし小説がとても素敵だったもあって、ももクロのファンだけれど出来るだけフラットに見ようとしたつもり。

書いていてカッコ付けたくなる癖がどうにも抜けないのですが^^;、読んで何かしら感じたらtweet、ブクマ、コメントなどいただけると励みになります。m(_ _)m

* * *

終わりが始まり

なによりこの映画の終わり方が好き。物語の続きを見たくなる。

余韻というとも違う気がする。これから未来が始まっていくんだ、幕が上がったんだなあ、と。

映画の中にいる人物は、この後もこの人生を生きていくんだと感じた。

自分が埋めていく物語。

登場人物たちが空を見上げるシーンがあるんだけれど、空はスクリーンに映らない。

そこから先は自分で見なよと言いたいかのようだった。それがきっと、この映画が自分と重ね合わせられる要素になっていんじゃないだろうか。

自分が見てきた空、これから自分が見る空を、観客が思い描きながら見ることができる。

スクリーンの中で終わらない広がりってこういうことなのかもしれない。

先輩の写真を撮るとき、さおりが先輩に言われる言葉。明美がいろんなことに気を遣っている場面など、ほんの些細な仕草や言葉があることで、そこにいる人物のキャラクターがよく分かった。

東京の街でユッコが泣いてしまう場面、即座に がるる に茶々を入れられて余韻もなく移り変わるところも、ユッコの気持ちを考える余白があった。

滝田先生が授業の最後で「残念、ここまで」という場面がある。まだ伝えたい思いがあるのだということが見えてくる。全てを伝えられなかったという想いを感じるので、余白を埋めていきたくなる。その人を知りたくなるし繋がりたくなる。

言葉や仕草一つひとつの人物描写が緻密だから、その人がそこに存在して生きているし、余白が生まれるんだろう。

何ものでもない何か。不安と期待

何ものでもない何かであること、何にでもなれることの不安と期待。

「宇宙はどんどん膨らんでいく。それ故みんなは不安である」、劇中で紹介される谷川俊太郎の詩。

「だから私たちは宇宙の果てにはたどり着けない」と滝田先生が言う。

“何ものでもないってことは何にでもなれる”って事なんだから希望に満ちあふれているはずだけど、こんな不安なこともない。その瞬間はなんでもないんだもの。

自分の話をすれば、希望ではなく不安を感じてしまう方だ。

学生時代、興味のあるものをはっきりと持っている人が羨ましかった。脇目も振らずにのめり込むことができたらと思っていた。

それだけ考えて生きて行ければ楽なんじゃないかとさえ思っていた。目標に向かって突き進む人への憧れと敗北感だったんだろう。

そんな思いが払拭されてきたのはもう2回目の成人式を迎えたくらいだったかもしれない。

そんな気持ちを思い出して見ていた。でも、何かになっていけること、変わっていけることは楽しいことだというのも感じる事ができた。

モノローグ:口に出せない想い。

序盤ではさおりのモノローグが多い。説明しすぎなんじゃじゃないかと思うくらいだった。

好きなものはあるけれど心底打ち込むわけではなくて何かにいらだっていたさおり。きっと、何ものでもない自分への不安が、不満やいらだちに姿を変えていたんだろう。

あのモノローグは、彼女の口に出せない想い。

けれどいらだちを抑えこんでいるのが臨界に達して、人にぶつけてしまう時が来る。

そしてそのあと、部員の演技に対してさおりが感じている事を吉岡先生が言葉にする場面がある。そこでさおりは自信を持ったんだとおもう。

というより、自分の感じ方を誰かに認めてもらって初めてその思いの存在を自分自身が認められたんじゃないだろうか。「ああ、これって思ってていいことなんだ」って。

ひとりぼっちの想いがひとりぼっちじゃなくなった瞬間が積み重なって、人とつながっていこうと思えるんだろう。

不満を持っているって事は何かしら理想や目標を持っていることなんだけど、進む先がおぼろげなときはそんな前向きな気持ちになんかなれない。苛立ちに飲み込まれてしまいそうになる。

さおりはずっと「何かにいらついていて毒づいて」、言わずにきてた。口に出せないことを、お母さんに「損な性格だよ」って言われてた。

伝えない想い。

けれど、後半になるにつれさおりのモノローグは減っていった。

「届けるつもりもありません。だけど手紙を書いています」。最後の方で、さおりは届けるつもりのない手紙を書く。

言いたいことを言えずに抑えるんじゃなくて、言いたいことはあるけど言うかどうかを自分で決める。

伝えられないのではなく、伝えない想い

さおりはそういう折り合いが出来るようになったんだろう。ひとつ大人になったんだなあという場面だった。

つながるひとりぼっち。

明美とさおりが2人きりでいる場面、そこだけが特別の場所になった感じがした。

なんともいえない空気感があった。

合宿で演劇の練習をしている場面の結束感が伝わってくるから、彼女たちの様子を覗き見ている気分になっていた。

でもこうやってみんなが力を合わせていく部活を描いていながらも、「寂しさ」を感じることができた映画でもあった。

吉岡先生も一人で世界に立つことを選んでいる人だった。

だから、プラットホームでの中西とさおり二人の場面が印象的だった。

ジョバンニを演じるユッコのピンとした背筋と声が、その寂しさをより感じさせてくれた。

銀河鉄道の夜」でいう天ノ川のように、遠くから見ると一つに集まって見える星々は、一つひとつ別々の星。彼女たちもそうなんだということを感じながら見ていた。

最後の最後でアイドル映画

本広監督は、“アイドル映画が不遇な今チャレンジしたい”、というようなことを言っていた。

エンディングで「走れ!美術室編」が流れ、撮影中のももクロが映る。ああ、そういえばこれはももクロが出ているアイドル映画なんだなあってことを思い出した。

現実に戻されるようで不思議な気持ちだった。なんだか別の感情が流れ込んできた。現実って何だ?と言う気もするけど。

本広監督は、この映画は映画の時系列に沿って「順撮り」したと言っていた。それによって役者が成長する姿をドキュメンタリー的に見せることが出来る手法だそう。

確かに弱小演劇部が自信を付けていく様とももクロが女優として変化していく様がシンクロしていた。

アイドル映画の部分を排除して、しっとりと描くこともできる映画だと思った。けどちゃんとアイドル映画であったことに、監督の覚悟を感じた。

現実と虚構、幾つもの世界が共鳴する

小説を好きになったこともあったので、ももクロが出ているとはいえ出来るだけフラットに見ようとした。 けれど否が応でもももクロのストーリーに重ね合わせてしまう。

リーダーになりたかったわけじゃなく、悩みながらやってきた夏菜子(さおり)。

一番最後にメンバーになって打ち解けるまでにいろんなことがあった杏果(中西)。

自分のポジションを取られるんじゃないかと嫉妬していた詩織(ユッコ)。

一番後輩だけれど場の全体を見ているあーりん(明美)。

ムードメーカの がるる(れに)。

路上から始まったライブはいまや数万人が入る大きなライブ会場に。

ももクロを知らないで見てみたいとも思った。でもこれこそが、アイドル映画なのかも。アイドルが出ている以上、ファンからすれば俳優として完全に“透明”には見ない。

逆にそれがアイドルの成長物語も含めて、いろんなものを重ねて見ることが出来る。

演劇部の成長と、ももクロの女優としての変化。アイドルグループももいろクローバーZとしての歩み。ももクロメンバーと登場人物の共通点。

それと、自分の世界と映画の世界。

同時に幾つもの世界がシンクロしあっていた。音が共鳴して大きくなるようなもんだろうか。

伝えたいものがあって繋がっていく過程は、そのままももクロの体験なのだとも思った。

ももクロを知らないほうが素直に映画の世界に入り込めるかもしれない。

けれど、ももクロを知っているとさらに別の世界がシンクロして、より虚構と現実が入り交じっていて、幾つもの世界が共鳴し合う、とても不思議で気持ちの良い映画(ファンタジー)だった。

飯塚&玉井詩織の司会とツッコミが凄かったので振り返ってみた。「俺のザ・ベストテン」

 

俺得な飯塚さんと玉さんの司会だった「俺のザ・ベストテン」。

スターダスト女性アイドルグループによる新春イベント「藤井とヨメの七日間戦争」。ソロ、ユニット曲をファン投票し往年の番組のフォーマットで発表する「俺のザ・ベストテン」。LV観戦。

懐かしいベストテンの音楽で始まってみると、なんと東京03の飯塚さんと玉井詩織(玉さん)が司会じゃないですかぁ!!。

東京03は、もうずっとい単独公演を見に行っているし、自分の推しは玉さん。

スターダストのももクロ妹分をあまり知らない自分としては、今回のイベントは完全に司会がこの2人であることだけで、俺得イベント。

なので飯塚さんと玉さん以外、敬称略になっちゃってます。

杏果が挨拶に出たり、80年代のテレビ番組を贅沢なゲストを呼んでオマージュしたり、「俺のももクロライブ」を含めてあーりんがフィーチャーされまくってるところとか。ALL STARイベントがスタダの若い子たちにどんな影響を及ぼすかとか、いろんな側面はあるけどそれはすっ飛ばして、玉井&飯塚推しの観戦記。

ももクリも俺のももクロライブも書きたいことがあるのにまだ書いてない。玉さんの記事を勢いで書いちゃう辺り、自分は玉さん推しなんだと再認識する。

ももクロの“楽しさ”

書いてみてイベントを振り返って思ったのだけれど。

自分が好きな人どうしが、お互いを認めあって信頼し合っている場面を見ていられるって、とっても幸せなことなんだなって気づいた。

あ、これが俺にとっての、ももクロの本質的な“楽しさ”なのかもしれないなあ

今回は、飯塚さんと玉さんが、お互いの力を認め合って2人の間に信頼が流れているのが見られた。いつものももクロのライブなら、メンバー間に信頼が流れている。で、モノノフとももクロの間にも信頼が満たされている感じがする。

そういうのが自分にとってのももクロの“楽しさ”なんだなあ。

ツッコミのこととか、いちお笑いファンが偉そうに書いてみたけど、今回のイベントの一番楽しかったのはこういうことだったんだな。

※ 面白いなと思ったら、ブクマとかtweetでもして頂けると嬉しい限りです。

まさに八面六臂の玉さん

玉さんはイエローサミットだけじゃなくて、人見知りサミットにもサプライズ出演したらしい。今回のイベントの告知UstreamもMCとして出演しているし、まさにこのイベントは玉さん無くしては成立しなかったんじゃないか。理事長(藤下リョウジ氏)も「八面六臂の活躍」って言ってた。

そして「俺のザ・ベストテン」は、監督も選手もこなすプレイングマネージャーのようだった。

ショートカットの夏菜子と、新曲までお披露目したあーりんに持って行かれてるようですけど、ユニット曲入れたら、3曲ベストテンですからね。まあ、「ここでソロ曲2曲出ちゃうって事は、もうないって事ですよね」と、それさえもオチにする玉さんでした。

足、長かったなあ、綺麗だったなあ。膝っこぞうもツルっとしてたなあ。ミニだしカメラはローアングルだし。造形的に完璧だなあと思って見てた。

シームレスに司会もコントも歌もやる。

司会はもちろん、ショートカット対決のコント(茶番?)、自分の歌も歌う。全てをこなしながら司会の安定っぷり。

司会からすぐさま歌に移り、歌のさなかもツッコミは忘れない。

さすがだなあと思ったのは、自分の歌の時にアナログタロウの曲紹介をちゃんと聞いて表情を変えてツッコんでいた

アナログタロウの“どうでもいい情報は、”「ビルの解体を見て泣いてしまった」「玉井詩織さんがドアを閉めると必ず半ドアになる」。

それをしてたのは玉さんだけだったはず。玉井推しの記憶によれば。

「愛ですか」では、籠の中身を客席だけじゃなくて出演者に投げつけるヒトネタも見せる。隙が無いなあ。

飯塚&玉井。ツッコミ2人の司会。

飯塚さんは、アルファルファの頃からツッコミには定評がある人。単独公演では、みんなが思っているけどモヤモヤしてて言葉にしにくい感情と状況を、「あー、こういう言葉で言えばいいんだなあ」っていうカタルシスさえある言葉に落とし込む。

今回で言えば、安藤ゆずがブリッ子キャラなのにもかかわらず、メンバーに暴露されて「裏では緊張してました」と素直に認めたと思いきや、間髪入れずに「でしょ♡」とキャラが発動する場面。

「メリハリが凄いんですけども」とツッコむ。見ている側の感情の移り変わりをちゃんと言葉にしてくれる。こういうツッコミが自分の大好物。

そして、もう一人の司会、玉さん。2013年4月のももいろダイナソーZ」では、演出の佐々木敦規(あつのりん)に「玉ちゃんの裏回しはすごい」って誉められてた。「茶々入れ」と控えめに思っていた時期も通り越し、今ではスーパーサブを自認する玉さん。

ワードチョイス

玉さんは食いしん坊だけど早食いでも大食いでもないという話の時に、「そのうちデカ盛りチャレンジとかやらされそうで」というワードをチョイスすることが単純に凄いなと思った。

「大食い企画とかやらされそう」というセリフでも分かるし伝わるけどインパクトは弱い。

「デカ盛りチャレンジ」だと、より具体的でイメージも湧くし、的確に焦点化されてる。ツッコむことでイメージを鮮明にしつつ拡げている

もうすでに「なにいってんの」「ちがうし」「おいおい」などのツッコミの域ではないんだなあ。

補完的なツッコミ2人。

ワサビ寿司のコーナーで。

まいまいが「私そういうのじゃないんで(そういうことしないので)」と言ったら、飯塚さんが「みんなそうだから!」とツッコむ。

寿司を食べたとたんにゆうぞうが歌を歌っちゃうので、食べた後のリアクションに注目が集まらないという構成。

玉さんが「後のこれ(歌)、いらないよね(笑)」と、ツッコむことで、敢えて“リアクションをかき消すセオリー崩し”の構造であることに注目させる。腕ありすぎ。

2人によるツッコミの重奏が贅沢すぎる。

アイドルに詳しくないしスタダの子の名前を知らない飯塚さんが、とっさに名前が出ないと申し訳なさそうにしてしまう部分を見事にフォローする玉さん。

榊原郁恵、松本明子らの往年のアイドルが登場した際には、飯塚さんがちょっと焦ってマイクをズラしたまま喋って声が拾えてなかった時があった。すかさず玉さんが「飯塚さんマイク、口に当たってないから」と一言。

お互いにカバーするツッコミ領域が違っていて、補完し合っている飯塚・玉井だった。

2人のツッコミを堪能

清水ミチコが「マネではない、(その人が)降りてくるんです」と言って大竹しのぶをやった後に「モノマネするんです」といっちゃう。「詰めが甘かったな」とツッコむ飯塚さん。

玉さんは、松崎しげるがコートを脱ぎ捨てたとき、「何、今の衣装チェンジ」とその出来事を拾う。松崎さんが「いつものライブと違って、正面から出てくるから嬉しくて」と言うと、「いつもは裏動線ですからね」と、解説でもあり楽屋落ち的でもある玉さんのツッコミ。

まいまいがワサビを食べて歌ったあとに「治りました」というと「早い!健康だー!」という玉さん。こういう普通のコメントにもツッコむことでまいまいに注目が集まる。

飯塚さんに認められてる玉さん

1月6日のももクロChanの次回予告では、玉さんが「うちらトーク弱いですから」って言ったら、飯塚さんに「玉井さん腕ありますから」って誉められてて、玉さんガチ照れしてた。飯塚さんにほめられちゃう玉さん。

いやー、今回、お二人して素晴らしい司会でした。

ももクロのイベントやももクロChanだけでは勿体ないんじゃないか、このコンビ。

LV特典。飯塚さん、スタダの専属MCに?玉さん、ひな壇芸人

LVの特典映像で、飯塚さんが回してた。今までこういうときってメンバーがやるもんだと思ってたけど。

玉さんは逆サイドにいたので飯塚さんが1人で回してた。飯塚さん、このままスタダ専属MCやりますか。地上波でMCやるところあまり見ないから、これは嬉しいかも。

んでもって、玉さんは遠くからツッコんでてひな壇芸人のようでもあった。

飯塚さんが、各グループのメンバーに話を振っていた。

途中、髪をベリーショートにした夏菜子と映像が繋がると、玉さんは逆サイドから駆け込んで「3時間以上頑張ってきたのに、最後に全部もってきやがってー」と。

縦横無尽、八面六臂の玉井詩織

確かにベリーショートの衝撃は大きかった。いやー、確かに最後は夏菜子が全部持ってった。

しかし、3時間半も司会、コント、歌、裏も表も全て回し、台本を見ている感をあまり与えず、縦横無尽に立ち回った玉さん、凄かった。足、綺麗だった⋯。

 

 

 

おまけ

ももたまいのデュエットがVTR越しで残念でもあり安心でもあった

ももたまいの「シングルベッドは狭いのです」は、百田VTR別撮りによるデュエットだった。ももたまいは仲良しだし、自分玉井推しでもあり ももたまい推しなので、久しぶりに一緒に歌うところが見たかった。そう思いながらも、見るのが恐かったりもしてた。玉さんが「昔のももたまいとはちょっと関係が変わってきている」という様なことを言っていたから。

お互いに卒業証書を贈り合っていることから、2人の絆が何より固いのは変わらないのだろうけれど。それでも夏菜子無しで途方に暮れる玉さんでは無くなってきてるようにおもう。だからこそ、今のももたまいで「シングルベッド~」を歌うのを見るのはなんだか避けたかったのもあった。

見たいような見たくないような。だからVTR越しでなんだか安心した部分もあった。

ももたまいの今をちゃんと“更新”してほしかったから見たくないような気持ちになったんだろうなあ、なんて思っている。

世代的なツボ

セットはまったくベストテンだし、スポットライトのコーナーはあるし、中継もあるし。アナログタロウの80年代歌謡曲番組風の曲紹介もあるし。郁恵ちゃんまで登場してしっかりしたフリで踊るし。世代的にはどんぴしゃでした。清水ミチコのモノマネも見れたし。やっぱりベテランの人たちは歌い始めると目力が凄かった。遠くの客席まで見ているんだなあと思えた。

いかにもkwkmさんが好きそうな、イベントだった。そして俺もだけど。

若い世代は、自分たちが知らないけど凄い人たちや凄い芸能の文化があることを感じられる。そんな世代を超えて伝えることを実践したイベントだった。

杏果の復帰。ファンタジーとリアルの界面、杏果。

紅白からしばらく休んでいた杏果が挨拶だけだけど復帰した。「紅白」も「俺のももクロライブ」も杏果不在とそれを支える4人とモノノフという時期だった。

他の4人に怪我や病気があっても、僕らファンは同じように心配するけど、杏果の場合、ファンの心にはなにかしら特別な感情が湧いてきているように思った。

きっと、杏果はももクロというファンタジーと、リアルな世界の境界面にいるんじゃないだろうかって感じた。

ももクロはメンバーが素直で身近さを感じさせるけど、ファンタジー界の住人でもある。

その中でいちばん杏果がリアルとの界面を繋いでるって感じがする。リアリストだから茶番に乗れない時もあって。それこそが杏果らしさでもあるし愛すべきところ。だからこそファンが気持ちを乗せやすい・乗せたくなるんだろうな。支えようという気持ちをのせやすいからあれだけサイリウムが緑で染まるんだろうなあ。

ももクロの今後というグループ全体の文脈とは別に、そんなことを考えた杏果の不在と復帰だった。

記憶とキラキラを更新する、ももクロ 「走れ!美術室編」。

走れ 美術室編 全員

10月28日の衝撃

10月28日23:30、Twitter上のももクロファンは大騒ぎでした。

「走れ!」美術室編のMusic Video (MV)が公開され、11月5日は何か大きな発表がある。


Broadcast live streaming video on Ustream

本広監督が映画の撮影をしていて、それに関する発表ではないか、「幕が上がる」というタイトルなのではないかという推測も聞こえてきました。

「幕が上がる」とは高校演劇部を舞台にした物語だそうです。そのままももクロの物語でもあるという意見も見かけました。

* * * *

この映像は、今のももクロの魅力が凝縮されているように思いました。映画の世界を凝縮したものだったとしたら、かなり楽しみな映画です。

発表も気になるのですが、あの映像を見てこんな事を考えました。

今日の走れ!MVに、TIFの思い出を書換えられた古参さんもいるみたい。確かに幼さの残る夏菜子の額に張り付く前髪と汗は理屈抜きに心を掴まれる。ただ、ずっと活動を続けてくには幼さと健気さだけでない輝きが必要になる。共に新しいステージに進もうというメッセージなのかなって勝手に思ってる。

http://twitter.com/manta_birostris/status/527124485149691905

「走れ!」にははいろんな想いが乗っている

「走れ!」のMVは存在しませんが、これまで“実質的”にはTokyo Idol Festival 2010 (TIF) のライブ映像(「走れ!」)がそれにあたります。

 


ももいろクローバー 走れ! - YouTube

モテキ映画版でも使われており、いち楽曲というよりももクロを紹介するビデオといえます。

今と比べるととても幼く、笑顔で全ての力をぶつけるように歌い踊る6人。

特に、絞り出すように歌っている夏菜子の額に汗とともに髪の毛が張り付いている様は、ももクロという世界に人を引きずり込むハニーポットのような映像でした。

堂々としているようでもありながら、場慣れしていない様子も見え、必死ささえも感じる表情。

夏菜子 TIF2010

彼女たちが伝えようとするものから逃げることを許さない、ど真ん中ストレートの剛速球という感じです。

背も小さくて幼いけれど堂々としていて、異質なものが同居している。あの年代特有の煌(きら)めきを体現しているような映像でした。

その頃あちこちのライブ現場に足を運んでいたファンは、より鮮明にその煌めきを受けとっていたのだろうと思います。

あの頃盛んに言われた、「全力感」。TIFのころ僕はまだ彼女たちを知らなかったのですが、あの映像には心を掴まれました。心の中が熱くなってしまいます。

楽曲の魅力

改めて聞くと、楽曲自体の魅力がなにより強いんだと気づきました。

静寂のドアを開けるようにイントロがスタートし、綺麗でキャッチーなサビが印象的ですが、カラオケで歌おうと覚えようとして、かなり苦労しました。

サビ以外に、ほとんど繰り返しのメロディーがありません。2番になってもまた違うメロディー、サビにいったと思ったらまた違うメロディライン。

シンプルだけれど力強いバックに、表情豊かなメロディラインが載っています。すーっと閉じていくようなアウトロも魅力的です。

「走れ!」にはファンの様々な思いがあります。

楽曲の魅力だけでなく、暗い会場にサイリウムだけが光る光景をももクロとモノノフで作りあげることの出来る曲であることも大きいと思います。

なにより、無印(ももいろクローバー)時代の象徴でもある、あのライブ映像の「記憶」は大きいと思います。

美術室編へのいろんな想い

「走れ!美術室編」を見たときに、Twitterのモノノフはかなりざわついていました。自分の「走れ!」の思い出が書き換えられてしまう感覚を覚える人もいたように見えました。

「あの頃」との決別。まるで自分の青春が塗りつぶされてしまったかのような不安さえ感じていたのかもしれません。

一方で、あのきらめきに触れて、再び興味が膨らんだ人もいたようです。

自分に限らずあれをみて語りたくなった人は多かったようで、Twitter上でいろんな意見がやりとりされていました。

ライブの後に感想交流をすることがありますが、あのMVだけでずっと語り合いたくなる様なインパクトがありました。

それぞれのキャラクター

メンバーそれぞれが持っている一面ではありながら、映画の役柄を演じているようでもありました。

作り込まれているようで即興性も感じる、そんな映像。

れにちゃんは大人の階段を一足先に登っている。(一番ふざけてしまうけれど)。れに

あーりんはみんなより少し後輩で可愛がられている存在で。

あーりん

しおりんは大人への憧れを持っていてちょっと落ち着いて見せたがる。

しおり

杏果は、夏菜子を前に押しやり、飛び跳ねるれにちゃんに手を伸ばし、みんなの間をつなぐ存在。

ももか

夏菜子はみんなからからかわれながらも強く信頼を置かれている。みんなが背中を見ているし、みんなが背中を押してもくれる。

5人のつながりと即興性

10月18日に熊本の小さなライブハウスでやったライブ「有安杏果プレゼンツ チビッ子祭り2014」。

プレゼント企画が行われましたが、そのトークがとにかく面白いと思えたライブでした。

小さなステージだから5人がいつも一緒にいてそれを見られるというのも、楽しさの理由だったと思います。

やっぱり、ももクロって5人がわちゃわちゃとしてつながっているところがももクロの大きな魅力だと感じたイベント。

その場で作りあげていくという即興性も楽しさの一つでした。

* * * *

「走れ!美術室編」は、そんな5人のわちゃわちゃも即興性も、感じられるMVでした。

ソロで前に出てくるときもあれば、後ろでは「好き勝手」やっている。

「気付いたこの感情に」と前に出て歌う夏菜子は、後ろに視線をやるような仕草を見せ、仲間を意識しているようでした。

夏菜子

きっとこういうところに、5人の繋がりを感じるのだなあと。

多感な時期を体現している映像

ノスタルジックさも感じた映像でした。

どこか懐かしくて、昔のことだけど古びていかないような。記憶の中にある匂い。

あの4分54秒の映像だけで、“なにかに打ち込みつつ仲間と一緒の時を過ごしている”という空気を感じます。

自分が過ごした青春時代と同じではないけれど、共通に持っているイメージに呼応し、それがノスタルジーを感じさせたのかもしれません。

多感な時期を体現しているような映像でした。

* * * *

女性アイドルとして存在し続けることをめざした

ももクロは、3月に行った国立競技場ライブではっきりと宣言しました。

「笑顔を届けることにゴールはない」(百田夏菜子)。

「何年後も何十年後も一緒にいたいなって」(高城れに)。

ももクロにこの人生をかけて、がんばりたい」(佐々木彩夏)。

普段あまりこのようなことを言わない玉井詩織さえも、「ずーっと、ももクロを存在させ続けましょう」と言いました。

(有安杏果はちょっと控えめで、「これからもずっとずーっと、ゆっくり歩調合わせながら前に進んでいけたら」と言っています。)

歳を重ねても女性アイドルとして存在し続けるという前人未踏の道を進むことを5人がそれぞれの口で語りました。

「旬は瞬」ではなく

日本では女性は若いことに大きな価値を置かれていて、特に女性アイドルはその一瞬の煌めきを消費されることが運命づけられたような存在です。

たしかに十代特有の煌(きら)めきというのはあって、あの時期だからこそ感じられるものがあります。

特にローティーンからハイティーンに移り変わる頃は、容姿も精神も中性的でどちらの性にも未分化であるので、神秘的な佇まいを感じさせることがあります。

出始めの頃の広末涼子神木隆之介宮沢りえ栗山千明あたりを思い出します。

中性的で神秘的であり、未分化と未熟さとけなげさ。あの時だけしか見られない輝きだといえます。

2010年頃のももクロは、あの年齢ならではの輝きに加え、駆け上がって成長していく過程だからこそ見せられる気迫や熱量があったのでしょう(その頃はまだももクロを知らず、映像から想像するしかないのが残念ですが)。

 

かといって、「旬は瞬。輝く旬の時期は一瞬で過ぎてしまい、あとは下っていくだけ」、という発想に寄り添ってしまっては、この先ももクロを存在させ続けることは出来ません。

その年齢ならではの魅力をどうやってみせていくのか。それに対する今のももクロの答えをあのMVに見た気がしました。

「今そのとき」の魅力

これからも活動し続けるとなると、幼さや未成熟さくるけなげさだけではない輝きが必要になります。中性的な佇まいもおのずと減っていきます。

過去を否定するわけではなく、その時々の魅力をどう輝かせていくのか。

「走れ!美術室編」は、この時代でしか出せないももクロの魅力をぎゅーっと凝縮しているように感じました。

少女の面影を感じさせつつも、大人になりつつある表情も見せる。

“幼さとけなげさと全力感”という時代を経て、“大人と子どものはざま”の魅力。

夏菜子は、時おり非常に幼い声を出し、子どもっぽく無邪気な様子を見せます。けれどふと見せる表情にドキリとすることもあります(※)。

それは夏菜子だけではなく、ももクロは年齢的にもそういう時期です。

この微妙な時期に、少しずつ年齢の違う5人がいることで、様々な表情を見ることができます。

ほんの半年、1年の違いが大きな違いとして見えてきます。5人5様の「今」が見れるMVです。

(※ふと気づいたのですが、優香にもそういった多面性を感じます。志村けんとコントをやるときの優香とそれ以外の優香。)

キラキラの更新

映像からは、5人が信頼し合って仲良くふざけ合っている楽しさが感じられました。

大人っぽくもあり、無邪気な子供っぽさも同居している。それ自体がキラキラしている。TIF走れ!の時とは違うキラキラがありました。

最後の夏菜子のサビ、「君が好き、それだけで世界は…」では、照れた表情から一気に真っ直ぐに射貫いてくるような表情をみせます。

夏菜子 大サビ

大人でもない、かといって少女でもない。そして最後には5人が揃い、無邪気で楽しげな様子がとにかくキラキラしています。

煌めく若さにあふれた「TIF走れ!」を更新するかのような「走れ!美術室編」。

たしかにTIFの映像は鮮烈です。

けれどいまの彼女たちはあの時の彼女たちではない。

夏菜子が以前「平均年齢18歳、もう普通の年齢」と言ったのを聞いたことがあります。

平均年齢を言って驚かれる時代は過ぎてしまい、それに対する不安みたいなものを感じているのかもしれないと感じた覚えがあります。

この表情を見ると、若さだけを売りにするステージにはいないんだなと感じます(十分若いんですが)。

「走れ!」の記憶を更新する

この映像は、「あの時代を否定するではなく、今の年齢の魅力を表現していく。そうやって、共に新しいステージに進もう」というメッセージなのかな、と勝手に想像して興奮していました。

ももクロの仕掛けに、なにかしら文脈を見つけようとするファンの癖ですけれど。

メジャーデビュー、紅白出場を果たし、国立競技場ライブを成功させました。

「悪い大人は壁を作ってくれない、笑顔を届けることにゴールはない」と言うように、大きな(分かりやすい)物語は一定の区切りを付け、節目は以前より明確ではなくなっているように思えます。

若さを越えて活動していくことを宣言し、女性アイドル未踏の道をすすむ。昔のきらめきではなく、これまでのももクロではなく、今その時の輝きを見せていく。

“みんなが持っている「走れ!」の記憶を更新する”ために、今のももクロの魅力を映像にパッケージしたのではないか。そんなことを考えました。

「走れ!美術室編」 (もしかすると映画?) には、そんな決意と宣言が込められている気がしています。

これからの歩みを見せてくれた映像

これからも続くももクロの長い歩みを、ほんの少し見れたと思える映像。

ももいろクローバー」から「ももいろクローバー"Z"」になったように。「走れ!」という楽曲を使うことで、新たな歴史の断面を作り出したように感じるMVでした。

やはりももクロは「今」が一番面白いです。