このやっかいな、

joshua0.wordpress.comのはてな場所

Yosemite インストール。止まっているかにみえて、リモートでつながるし、入力待ちしてやがった(´o` )

なんだよそれ・・・

 

wpid-20141019060802.jpg

 

Yosemiteインストールで進捗バーが止まっていても、実は入力待ちをしていた。リモートでつないだら、次に進めるたという話。

今は英語で発信するのが大事だよ、という話に感化され、調子に乗って英語でも書いてみた^^;。

When Yosemite installation appears to have stuck, your mac might be waiting for your input.

If you can connect remotely, installation step will be able to go on.

This is only my personal experience.Rest of this article, Japanese only, sorry.

 

 

 

この画面で止まっている場合、裏では動いていてユーザーの入力を待っているのかも。

もしそういう状況なら、なんとかしてユーザー入力のステップを次に進めることで、正しい手順の再起動ができるかもしれません。

これはあくまで個人的な経験なので、他の環境で当てはまるかは分かりません。

 

インストール開始

YosemiteをサブマシンのMacBook Pro Early 2008にインストールしました。 10.9.5 最新状態からのアップデートです。

最初のスタック

大きなXのある画面で、残り21分と表示されるけど、進捗バーはまったく変化なし。 たまに残り時間が1分だけ変わるので動いてはいる様子だけど、バーはまったく進んでいません。

ネット情報では、/usr/local/ディレクトリに何かあると、数時間かかるという情報があったのでlogをみてみました。

たしかに、なんかいれてたかも。

Command+L (※) でログを見ると、ほとんど動きがない。

(※画面上をクリックしてメニューバーを出し、「ログを表示する」)

10月18日11時ごろの作業だったんですが、ログの時刻は17日夕方。後から気付いたけど、基準時刻だったよう。

sshで入れないものかと、メニューバーからWi-Fiに繋いで、MacBook Airから繋いでみたけど反応なし。

(※ Wi-Fiに繋いでから、メニューバーのWi-Fiアイコンをoption+クリックするとアドレスが分かる)。

時間がかかってもいいかと、小一時間放置すると、残り時間5分に。

そこで固まることはなく、再起動を促す画面まで到達。

2度目のスタック

しかし、再起動してグレー背景にアップルマーク()が出ている画面で、バーが2cmくらいで止まったまま。

ここで固まるという報告も幾つか見かけました。

強制再起動してTimeMachineから復元したという報告もあったんですが、システムが壊れても嫌なので、一晩かかることを覚悟してしばし放置。

待っている間になんかやれることはないかとsshで繋いでみると繋がります。

けどこの後のスキルがないので、それっきり。わかったのは、システムそのものはなんかしら動いているんだということだけ。

リモート接続したら先に進めた!

するとMacBook AirにTeamViewer(※) から「MBPがログインしました」と通知。

どうやら結構な感じで動いている様子。

MacBook Airからリモートで繋いでみました。これがその時の画面です。

(※ TeamViewer:リモートデスクトップアプリ。マシンを登録しておくと、操作可能になったときに通知が来る。)

右側のアップルマークのMacBook Proが、インストール中のマシン。

左側のMacBook Airは、リモート接続してMacBook Proの画面をみています。

iCloudの設定項目を入力するように求められています(1枚スクリーンショットは撮り忘れました)。

画面サイズをみると、MacBook Proの1440×900ではなく 1280×1024になっているので、仮想画面という雰囲気です。

この後、システム標準の「画面共有」でも繋がりました。

リモートで繋いだまま設定情報を入力し終え再起動すると、MacBook Pro単体でちゃんと Finder 画面が表示されました。

* * *

おしまいに

たまたまなんとかなりました。

この方法は、アップデート前にTeamViewerなどのリモート接続ソフトをインストールしてあったか、画面共有を有効にしていた(※)からという限られた状況でないと使えない技です。

(※ [システム環境設定]-[共有]-[画面共有])

試せなかったのですが、 外部ディスプレイを接続したら、入力画面が見えたんでしょうか?。

または、キーボード操作をして入力画面をスキップする、という技が使えれば、マシンひとつでこの画面を抜け出すことができるかもしれません。

スキルがあれば、sshでつないで、ターミナルから設定を入させるアプリを終了させ、再起動させたらうまくいくんでしょうか。きちんと分かってないので、素人の想像ですが。

* * *

いずれにしろ1番の解決策は待つ事みたいですね。

海外の掲示板をみてると、ひたすら待っていればなんとかなるという報告が多い気もします。

ももクロ 夏のバカ騒ぎ 桃神祭。遊びの天才、玉井詩織はどんな祭りを作りたいのか。

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今頃になってももクロ 夏のバカ騒ぎ 桃神祭、観戦記。全体としては、祭りという軸で、楽曲のアレンジ、構成、演出を全て貫いていた。細かいところまで追求していた。テーマ性の持たせ方は全く違うけれど、一本の強い軸につながるという意味では、五次元、GOUNNツアーの様だった。楽曲が新しい装いをまとい、演出の各所が祭り仕様になっていた桃神祭。祭りだからこそ次の展開を求めてしまう 桃神祭 “Version 1”だった。

桃神祭を振り返っていたら、玉井詩織のことばかりになってしまった。遊びの天才、玉井詩織はどうやって人を遊びに組み入れていくのか、そして玉井はどんな祭りを求めているのだろうか。

玉井詩織は、天才肌で何でも器用にこなしてしまうので、アイドルらしい成長物語が見えにくく、感情移入がしにくいと言われることがある。そのせいもあってか、玉井推しの自分にとっても昨年までのライブでは、玉井詩織が突き刺すような印象を残すことはあまり多くなかったように思う。けれど、昨年のパンナコッタ、今年4月のAEイベントなど、玉井が強く印象づけられる場面を見るようになってきた。今回のライブ、キーパーソンは玉井だった。玉井推しだからそう見えるのかもしれないけど、最近の玉井詩織は目が離せない。1年前の百田夏菜子のようだ。

 

また長ったらしいのですが、こんな内容です。1-1 〜 1-3が一番言いたいこと。2-2、2-3はライブの演出面について。2-1はやっぱなんか書いておこうと。

ブックマーク、tweetなどいただけると嬉しいです。

  1. 桃神祭全体
    1. 桃神様への違和感と、玉井の遊び心
    2. ももクロの「人と繋がる ちから」 ;今回のライブで見せた“人たらし”さを分解する
    3. 祭りだからこそ感じる「もっと、もっと」感

     

  2. それぞれのこと
    1. 2日目の虹〜「奇跡なんかは待つものじゃない」 ;構成変更の裏側を想像する
    2. 祭りを作り上げた演出   ;演出面について
    3. 祭りを作り上げた曲の装い ;曲のアレンジなどについて

     

桃神様への違和感と玉井の遊び心

「神様」に違和感

日本の祭りをテーマにした2014年夏のバカ騒ぎ 桃神祭。両日ともライブビューイングで観戦。

三峯神社での神聖で厳かな雰囲気のオープニング映像。そこへ「桃神様?ライブの神様って感じ」というVTR。 メッセージ性を持たせない夏の「バカ騒ぎ」ライブ。そこにテーマ性が示された感じがして、うまく入り込めなかった。“祭り”だけであったり、彼女たちから自然発生したものなら、躊躇なく入り込んだかも知れない。けれど突然「桃神様」が現れ、違和感が生まれた。

これまで、ももクロが大きなライブで仕掛けるファンタジーは、あえて「わざとらしく」「チープ」な作りになっている。ももクリ2012のネバーランドとそれを壊す悪役、2011極楽門の戦隊ヒーローショーのように。考えてみれば「代々木公園の猫たち」の時から、チープでインチキ臭かった。そういうの、大好きです。 代々木公園くらいのサイズ感であれば何も考えず楽しめる茶番。けれどそのチープさも、仕掛けがでかくなると、バランスを欠いて「空々しく」なることもある。これが、メッセージ性のある春や冬のライブであれば、「物語」が空々しさを凌駕するのだが、夏は違う。夏菜子も言っているように、バカ騒ぎは「本当に楽しむだけ」なのだ。 ※川上アキラ著 「ももクロ流 5人へ伝えたこと 5人から教わったこと」 三峯神社がもつ空気感からだろうか、詳しく知らない僕でも何かしら大きな力を感じてしまった。さらに「桃神様」が突如現れたものだから、僕の頭はあれやこれやと動き出してしまった。“Don't think. Feel!” できなかった。「急に神様って言われても…」って思ってしまった。

と、桃神様に入り込めないところに持ち前のへりくつが加わり、頭の硬さはダイヤモンドを超えていった。

玉井詩織のバランス感覚で、緩むネジ

そんな僕の固い頭のネジを緩めてくれたのは、いつもの“玉井煽り”。 VTRの最後に玉井詩織が、「日本最大の夏祭りになるでしょって言ってんの!ももクロが、ももクロが言うんですよ。みんな、ももクロ好きでしょ!。…ほら。ももクロがいれば、最大の祭りになること間違いないでしょっ!」と笑顔で語りかける。

そういえば「ももクロ2013」でも、玉井の「隣の人が寝そうになったら起こしてあげて下さいね」の一言が、僕の“現地とLVの「温度差」不安”を吹き飛ばした。

玉井は、「みんなももクロ好きでしょ!」はいつもと違って、少し照れたようで、はにかんだ感じに見えた。これが意図したものか、玉井が自然と感じ取って出てきたものかは分からないけれど。言い切っていないところに、普段のVTRや煽りとは違う感覚を覚えた。

これが良かった。

玉井詩織は、かっちりそしぎた型や設定があると、少し照れてしまうところがある。自分だけにスポットが当たった瞬間にもそうなるが。

彼女が自然とたずさえていた、“真正面からどーんをぶつけてこない雰囲気”に、少し気持ちがゆるんだ。

ももクリ2013のVTRもそうだが、この気持ちの「緩み」を作るためにおそらくOP映像は玉井詩織で締めくくるのだろう。煽り担当、という理由だけではないはずだ。

ライブ全体のテーマやメッセージを示しつつも、のめり込みすぎない感じを醸しだして、楽しめる余地を作るっているように思う。大きなテーマ性と、インチキ臭いチープさを、同時に見せてくれる感じ。

ど真ん中ばかりでは、遊びや笑いは生まれない。意味のないものや、くだらないものが欲しくなる。タモリ的に言えば、「やる気のあるヤツは去れ!」の感覚。「茶番的ファンタジー」、アマチュアリズムのバランスを持っているからこそ、新鮮さが続く。

百田が長嶋茂雄なら、玉井はタモリなのかもしれない。詩織推しの偏見か。

と、気が付くと玉井詩織の話ばかりになっている。

そうそう、この「くだらない茶番」が何よりはじけていたのは、歌の途中で屋台の食べ物をほおばるところだ。みんなの姿が楽しいのだけれど、こういう場面が一番似合うのは、玉井。こんな事ももクロくらいしかやらないし、ももクロらしかった。

ももクロの「人と繋がる ちから」

いろんな世代が集まるバカ騒ぎ

2日目、会場の観客に年齢を聞く流れになり、いろんな世代が参加していることが分かる。

 

百田;いくつになっても、いろんな世代がいろんな場所から集まってきてバカ騒ぎできる環境をずっとずっと作っていきたいって思うよね。

高城;つくろうよ!ついてこいよ!

玉井;リーダーの重荷がとれた瞬間に、一気に大口叩くよね。

百田;最年長の高城さんが踊れる歳まで踊れる確信がある。

すでにいろんな世代と繋がっているももクロがいるけれど、今回、新たに繋がった人がいた。

花柳先生と仲良しになる仕掛け

2日目のバンド紹介の時間、花柳先生がステージに登場したことに驚いた。花柳社中は昔から知っているが、玉井がLVメッセージで「人前に出ることは滅多にないんです」と言っていた通り、代表の人を見るのは初めてだった。

そしてもっと驚いたのは、ももクロと先生がすでに仲良しになっていること。メンバー紹介を追えて変える花柳先生に、高城が「バイバイ」と声をかけていた。その後のLVメッセージで、ももクロバンド、松崎しげる、コロッケに加えて、花柳先生もいたが、みんなが“ももクロチーム”の一員になっている雰囲気だった。

なんで、こんなにファミリー感があるのだろうと思っていた。それは8月6日のももクロChanで分かった。

ももクロChanでは、恒例のウォーターガンのリハーサルのために用意された水鉄砲で、花柳先生とメンバーが遊ぶ様子が映されていた。

「やりたい!やりたい!」という花柳先生がなにより素晴らしいが、そこで一緒に遊ぶももクロチームもいい。

よく考えれば、ウォーターガンのリハーサルのために、ハンディ水鉄砲はいらないのではないだろうか。ファンタジーをほじくり返す野暮をしたいわけではない。チームとして一体になるために用意していたのではないかと感じて見ていた。

花柳先生まで水鉄砲で遊んでいたから、ステージから花柳先生が帰るときに、高城は「バイバイ!」と言ったんだ、と分かった。このときから関係は築かれていた。

「一緒に遊ぶ」ってこういうことだ

芸事に真摯だということは当然ながら、チームみんなでワチャワチャすることがチームの力を高めていると感じた場面。

ただワチャワチャするのではなく、「一緒に遊ぶ」ことで一体になっていく場面があった。このときの玉井は見事だ。

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水鉄砲で遊んでいると、花柳先生が「やりたい!」と無邪気に駆け寄ってくる。メンバーを追いかけていた玉井が気づき、身体をねじって先生の元に行き、水鉄砲を渡す。

凄いなあと思ったのは、この先。

水鉄砲を渡した後、まだ先生が構える前から、狙ってくれといわんばかりに、おどけて花柳先生の前に出て逃げていく玉井。

自分が逃げることで、相手にも遊びの「役割」が与えられ、お互いにその役割に“はまる”。この瞬間、仲間になる。こうやって人は繋がってく。

ああ、友だちと仲良くなっていくときって、こうやって遊ぶんだよなあって思う。仲良くなるってこうやるんだったなあって。

切り出してコメントしてみた。

 

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  ↓

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「バイバイ」という高城もそうだが、百田、玉井、高城の“人たらしぶり”が ももクロの力だろう。百田はスタッフに容赦なく放水し、自分がかけられて「もう、最悪!」と騒ぎ、その場の雰囲気を盛り上げる。高城は、「(花柳) 先生、行くよ!」と事前に声を掛けるという優しさを持って水を掛ける。それぞれに人と繋がるちからがある。

ライブ最後のバンド紹介の時間は、賛否あるようだが自分は好きだ。チームの繋がりが観客からも見える場面だから。

2日目LV向けメッセージに、人と繋がるちから。

2日目のLV向けメッセージでも、もももクロが人と繋がる力を見れた。

高城が、普段はカメラの後ろにいる演出の佐々木敦規(あつのりん)を呼び込んだ。

「開演前泣きそうだった」というあつのりんに、高城は「今、別の意味で泣きたいでしょ」といい、玉井は「この方、天才なんです!」といじり倒す。

開演が遅れ構成変更で大騒ぎだったスタッフ全員を、観客が見ている場でねぎらうかのように、笑いを交えて裏方リーダーの佐々木敦規に光を当てる。高城がももクロの母性だと言われるところだろう。

そんな良いことしておいて、最後には1日目と同じく、高城が百田の服に氷を入れ、大騒ぎで終わっていく。「いつものももクロ」で締めくくられた。

祭りだからこそ感じる「もっと、もっと」感

祭りなら一緒に踊りたい

桃神祭は全編通してお祭りだった。セット、構成、楽曲のアレンジ、屋台。そしてお祭り隊に盆踊り。

お御輿の上で歌った「行くぜっ!怪盗少女」は、お祭り感満載だった。

お神輿を担ぐ人に、乳児を抱っこ紐で抱えている女性がいた。それを見たときに、なんかいいなあと思った。論理的な説明はできないし、この感覚は突き詰めると間違っているのかも知れないのだけれど。“土着だなあ”と感じた。自分が子どもの頃に出かけていった祭りという感覚。

それを見たからか、2日目の「ワッショイ」コールには涙してしまった。LVであっても、「お祭りを一緒にやっている」という感覚があった。

* *

けれど、「祭り」と「ももクロ」が、まだまだ“別々”だという部分も感じてしまった。

映画館のLVだからという影響は大きいだろう。現場にいたら違う感覚を持ったかもしれない。

現場では盆踊りの時に踊っている人はいた。けれど、現場にいてもその場で練り歩いて踊るわけにはいかない。自分の席で上半身だけで踊るしかない。

贅沢なことだとは思うけれど、全国から祭りを盛り上げるチームが登場したとき、盆踊りが流れたとき、「ここにももクロがいたらなあ」と思った。

なぜ祭りなのに、一緒に踊れないんだろうって思っていた。

もしできるなら、ももクロがいるやぐらを囲んで、みんなで練り歩いて踊りたい、って思ってしまった。

何万人も集めてそうそうできることじゃないのは分かっている。大混乱になるだろう。けど、それがやれたらどんなに楽しいだろうと思ったイベントだった。6万人で盆踊りできるような「バカ騒ぎ」ってどんなものだろう、と思いながら見ていた。

彼女たちほどの人気者と一緒の場所で盆踊りをするなんて、そうそう無理なことだとは分かっている。けれどそれがしたくなってしまう演出だった。

もともとももクロのライブは、それ自体が「お祭り感」で溢れている。今回の「お祭り」は各地のお祭りとももクロの祭りが足し算されたものだったけれど、2乗3乗と掛け合わされてもてもいいのではないだろうか、なんて勝手な期待を持った。

「お祭り」という空間・演出だからこそ感じたフラストレーションがあった。LVだからなのかもしれないけど。

この曲はこのアレンジで聞きたいとか、曲ぶった切るなとかいう観客の希望を完全無視していいから、ももクロと一緒にChaiMaxx音頭を踊ってみたかったりしたんだよなあ。

祭りとしては、もっと楽しくなれるんじゃないか。楽しいからこそ、そんな思いを持った。

「もっともっと楽しい祭りを主催しないといけない」

祭りとしての「もっともっと」。それを一番感じていたのは玉井詩織なのかもしれない。後から振り返って、勝手にそう思った。

玉井はたしか、最後にこんなことを言っていた。

「この夏祭りを知っちゃったら、もっともっと楽しい祭りを私たちが主催しないといけないんじゃないかと思ってきたので、これからも夏のバカ騒ぎを皆さんと一緒に楽しめたらいいなと思います」。

当然ながらあれが完成型ではないと彼女自身思っているのだろう。それはスタッフ含めて、高みを目指すももクロチームなら、みんな感じていることだろう。もうすでに次を見ているはずだ。

* *

嵐のDVDを持ってきて国立競技場でのライブが夢になり、雨のライブもしてみたいと語っていた玉井。

国立ライブのパンフにも、「晴れるにこしたことはないですけど、逆に雨が降ったら、それはそれでみんなの思い出に残るかなって」とある。

おそらく今回のライブパンフの写真をTwitterで見かけたが、そこにも「雨の中でやってみたいんだよね(笑)」って。

玉井:雨の中でやってみたいんだよね(笑)

玉井詩織のこの発想の自由さが、ももクロらしさの大きなパーツを構成しているんだなと感じる。

玉井詩織の頭の中では、こんなお祭り〜行きたくてウズウズする…世界各地の壮大なお祭り・フェスティバルいろいろ〜でもイメージされているんだろうか。

佐々木彩夏は、浜崎あゆみなどのライブを見て、こんなライブがやりたいという具体的な形がイメージとしてあるだろう。百田夏菜子は、「伝える」という部分で遠くを見ているだろう。

具体と抽象の見方をする2人。けれど玉井詩織は、何をどこからどう見ているか分からない。それが面白い。

本当のお祭りの主催者に

去年の春の一大事、夏のバカ騒ぎライブを見たとき、ももクロは、何でも入れられる箱(ジャンル)〜去年の記事〜になろうとしていると感じた。

フェスを主催するのが、ももクロ流エンターテインメントライブの一つの形ではないかとも感じた。もっというと、ニコニコ超会議的。その一つの形としての「お祭り」。

テシロパークは、待ち時間を過ごし、周辺地域の混乱を防ぐ意味合いもあるが、すでにフェスっぽい。

これからの「ももクロフェス」、「ももクロ祭り」を考えると、楽しい。

*  *   *

ここからは、ライブの内容を振り返る。

2日目の虹〜「奇跡なんかは待つものじゃない」

2日目に触れておかなければ。

本州は雨雲に被われ、各地からイベント中止の報が聞こえてきていた。雷もあり、開催も難しいかも知れない。

雨雲がいつ会場に到達するのか、居座るのか、過ぎていくのか、雷にはどう対処するのか。開演と雨雲が近づくと、川上マネジャーのTwitterからこまめな状況報告が届いた。そんななか「開演は遅らせるが、中止はない」という知らせ。後で知るが、イベント開催の安全性について気象庁とも話し合っていたとのこと。

LV会場も21:30まで押さえているという川上マネジャーの発言に、LV会場も安堵した。LV会場は雨に降られることもないのだが、これらの情報によって、現地と繋がったライブ感があった。LVでも、1曲目から爆発的な盛り上がりだった。

開始を1時間遅らせ、内容を一部変更して短縮するというアナウンスに、「直前の構成変更で裏側はてんやわんやだったろうなあ」と想像していた。雨の中、今日も天手力男で始まるが、高城の表情はガチガチだった。DNA狂詩曲、Y字路の立ち位置もずれていたほどだから。

4曲を歌い終えると晴れ間が見え、大喜びで抱き合う5人。このときの高城は、緊張がほぐれて崩れんばかりの笑顔。MC中、ずっとワーキャーワーキャーしていたので、そうとう圧迫した想いがあったんだろう。

ライブが途中で中断するかもしれないと聞かされ、有安は「胃がもぎとれそう」と語っていた(めざましテレビ 7月30日)。誰もがとてつもない緊張感の中のライブだったんだろう。そこで百田の渇入れ、「雨だぜ フォー!テンション上がるぜ フォー! バカ騒ぎだぜ フォー!」夏菜子さん、男前。

MCを減らしても楽しさは減らない。

打合せで用意していたはずのMCの流れをいったん捨てて、曲に入っていく。こういう瞬時の対応力が彼女たちの本領発揮の瞬間。

現地もLVも「ニッポン笑顔百景」では、1日目より「ワッショイ!」コールが大きく聞こえたのは、気のせいだろうか。自分が躊躇なくお祭りしたからだろうか。ワッショイ、楽しかった!。この歌があって良かった。

「黒い週末」では、あいかわらず食べまくるメンバー。有安も食べる。玉井は焼きそばを本気食い。さすがばくばくモンスター。ふだん百田は佐々木を抱えるが、この日は高城。高城は、百田の首筋を触り返すし、その後二人はハグ。高城は わた飴でケチャ。ギターソロで出てきたDAITAの肩に腕を載せちゃう佐々木。なんというエンペラーっぷり。ももクロらしさの集大成。

MCを減らしてテンポアップしたからと言って、いつものMCの楽しさは少しもなくなりはしなかった。

自己紹介のMC、楽しかった。「ももクロのわたあめ少女」高城れに。「ももクロの雨女」佐々木彩夏。「バクバクモンスター」玉井詩織。「水不足だったけど水が足りた」有安杏果。「ハタチの人ー!」百田夏菜子

その後「ツヨクツヨク」が流れ、ヒートアップしたまま「ChaiMaxx」になだれ込む。あーりんの煽りでさらに高ぶる。ネジがはじけ飛んだ。

構成全体がテンポアップしたことで、祭り感は高まったのかもしれない。

構成変更の裏側を想像する

1日目に盆踊り&衣装チェンジをした幕間パートは、2日目は衣装チェンジもカットしてMCになった。「My Dear Fellow (MDF) で幕間に行かずに、ニッポン万歳 へと続いた。

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桃神祭 2日間のセトリ比較表

 

7月30に流れた桃神祭の舞台裏(めざましテレビ)では、振付の石川ゆみが「ツヨクツヨクまでは変わりません」、玉井が「普通にChaiMaxxやって…」と言っていた。8月1日の梶原放送局でスターダスト A&R佐藤守道が、「着替えをやめて、メインステージにいながら本人たちが動きながらできることはなにかということを、やりました」という発言している。

サブステージで「MDF」を歌ったあと、メインステージに戻るために「ももクロのニッポン万歳!」を「NEO STARGATEの前に置いたことが分かる。

佐藤によると、「ももクロ音頭」をやめたのは “1分でも長くお客さんの前に本人たちがいる”ことを重視したから。そして石川ゆみの意見として、“大きな変更もやってやれない子たちではないが、演出の佐々木敦規が祭りとして作ってきた流れを崩さないでやる”という方向性を、ギリギリまでかけて組み上げたそうだ。

全体としてはMCと盆踊りをカットし、衣装替えをせずに「ニッポン万歳」で後半にむけてステージを移動したようだ。

曲は1日目と比べると2曲少ない。一つは「月紅」だろう。「ネオスタ」後の曲をカットし、新曲に関するMCもカット。「MDF」の前も変更しているかもしれない。1日目ネオスタの後、「LOST CHILD」があった場所には、「BIRTH ø BIRTH」が準備されていたのだろうか?

「奇跡」を感じさせるドラマをつくるもの

虹をみて、やはりももクロは「持ってる!」と感じた。“奇跡”、“伝説の” と言いたくなるほどの出来事。LVの自分でさえも、気持ちは上がった。

けどあれは、スタッフが天候を読んで開演を1時間遅らせ、観客の安全を考えてこまめに誘導し、構成を急遽変更し、メンバーも急遽対応したからこそ生まれたものだ。構成も、中盤で大きく変えている。MCや曲振りもコンパクトにしている。

まさに「♪奇跡なんかは待つものじゃない」(MDF) だった。高城が「モノノフはストーリーを作るなあ」と言っていたが、奇跡を感じられるドラマを作るのは、自分たちのやれることを精一杯やることでしか生まれないのだなあ、と感じた。

だから、観客は精一杯バカになって応援するんだ。

祭りを作り上げた演出

Ⅰ日目に戻って、バカ騒ぎで魅力的だったことを書いておこう。

ももクロらしさの極地 「黒い週末」

オープニングでその大きな姿を見せた神社。石見神楽、岩手虎舞も凄かったが、和楽器の存在感。太鼓、三味線、横笛の音と掛け声が聞こえてくると、気持ちは盛り上がって行った。

去年の日産でも和太鼓はあったが、スパイス的であり、ここまで楽曲の中心には座っていなかった。全体を通しても、三味線がクリック音・電子音のようでもあり、打ち込み主体の原曲サウンドイメージとうまく溶け合っていたように感じた。最初の生バンドから、徐々にアレンジが進化しているのは素人の僕でも分かる。

なによりネジがはずれたのは、M3 黒い週末。本物の屋台があって、歌っている間にかき氷、焼きそば、ラムネ、リンゴ飴を食べる。「ゴリゴリのロックチューンなのに、歌も歌わないで食ってるし!こういうの大好きだー!」と、幸せを感じていた瞬間だった。

こんなことはももクロくらいしかやらないし、ももクロらしい。コレが見れただけで、良かったと思える演出だった。何者かが「わかんない」のがももクロ、ということが垣間見えた。 そうそう、このあとの自己紹介でも食べ物をほおばっていた。

そして「D'の純情」への入りが、かっこよかった。曲前でセットした時の指は、自分の記憶にある“伸びた三本指”ではなく“Dの形”がスクリーンに映し出された。忍者となって屋敷に忍び込むPVの世界観が、この神社セットで完成された感じがした。和楽器とのマッチングも見事。

汗だくが美しい

1日目、現地は観客がダウンするほどの暑さだったと聞く。LVで大きく映し出される彼女たちは、開始直後にもかかわらず、尋常ではない汗をかいていた。1日目は衣装が重厚で、余計暑いのではないかと思っていた。ただ、本当にもう、笑顔で汗だくで踊る彼女たちは、輝いていた。

佐々木彩夏が国立のパンフで「やっぱりライブっていうと、汗かいて、ぶっ倒れるくらい踊って完全燃焼するっていうイメージがあるから」と言っていたのだが、まさにその通りの状況。本当に大変だったことだろう。2日目に衣装が軽めになっていて、すこし安心した。

自由度の上がる堂々平和宣言

堂々平和宣言 は、ここ最近の楽曲としては、パフォーマンス込みで一番好きな曲だ。

サングラスを掛けた瞬間に彼女たちがキャラ変し、それまでの何かから解き放たれ、一気に自由度が増すからだ。

2日目は、上演時間を減らす関係で、堂々平和宣言に入るサングラスのくだりが超短縮バージョン。これをを見ると、1日目のが間延びして見えるほど。ももクロにまだ慣れてない観客に対しては、前振りをして丁寧にやる必要があるのかも知れないけれど、結果的にこのテンポで良かったんじゃないかとさえ感じた。

演出での盛り上げ

バカ騒ぎ「ココ☆ナツ」、アリーナの特権だった客席への放水が、カメラも向けられた。LV組は当然、大盛り上がり。かけるときの彼女たちの表情も5人5様で見事だった。悪童ぶりが可愛い夏菜子。即座にど真ん中を射貫く詩織。放水中の勢いに振り回されるのが愛い彩夏は。ハートマークに投げキッスと、サービスたっぷりな杏果。なかなか狙いが定まらないのも可愛い れに。

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ペアのいる演出。観客の近く ⇆ 5人揃ったパフォーマンス

「DNA狂詩曲」は、3B-Jr.の子たちとペアになって歌っていたのが素敵だった。どの曲もそうなのだが、ももクロはメンバーどうしが近くにいて歌ってほしい。けれど大きな会場だと立ち位置も離れてくる。ここはジレンマだ。

「キミといるだけで なんか遺伝子が笑う」と歌うこの曲に、ペアがいることの意味は大きかった。“観客の近くまで行くのか” ー“ 5人の関わりを見せるのか”。ライブのたびに感じる葛藤に対する一つの答えかもしれない。

自分を解体するメタ視点のももクロ

ももクリ発表は、コロッケのものまねでサプライズ自体を笑いに仕立てた。会場の規模や動員数が共有できる目標ではないからなのだけれど。

絶えず自分の足下から解体して変えていく自己変革がももクロの身上だけれど、この辺がまた“メタ視点”のももクロらしい。自分たちのやってきたことをネタにして茶化してしまう。その最たるものが、AEイベントの「俵安」。

祭りを作り上げた曲の装い

曲の装いを変えて表情を新たにしたアレンジと見せ方

祭りチームが会場を埋め尽している時間、BGMは「ももいろパンチ」と「ピンキージョーンズ」の和アレンジが流れていた。ももパンはもともと和がテーマの頃の楽曲だし、PJは楽器が多彩な曲。楽しい音だった。

「キミとセカイ」の見事なバンドアレンジ、DAITAのギターソロで始まる「サラバ、愛しき悲しみたちよ」。後で知ったが、DAITAが原曲の良さを活かしつつ自分なりの味付けをする、綿密な準備があったそうだ。

佐藤守道: ももクロの原曲に対するリスペクトをすごくして頂いていて、ここはこういう風に弾いた方がいいとかというのはありつつ、その中でDAITAさんとしてのキャラクターを出して弾くところを、うまく使い分けてというか。ある意味、ひとつ、ももクロ的なバンドのあり方の理想というか。   ~梶原放送局 #72 8月1日

1日目で驚いたのが、「CONTRADICTION」から、息もつかせず「泣いてもいいんだよ」が始まったところ。あれだけ激しく踊った後で、低く力のあるミディアムテンポの歌い出しに繋げられることに驚いた。

「走れ!」。2013年春の一大事で初めて聞いたバンドバージョン。暗くなった空に溶けていくようなイントロは、以前よりもややスローテンポで、印象を深化させていた。

アンコールをはさんで、和楽器アレンジの「行くぜっ!怪盗少女」と御輿に乗ったももクロ。前奏がつかめず、MIXコールのきっかけがつかみずらかったものの、思いのほか和楽器アレンジがあっていた。津軽三味線の強烈なアタック音が、この楽曲の打ち込みテイストとあっていたように感じた。

1日目の「鋼の意思」は移動曲で使われていて、「なるほどなあ、こういう活かし方があるなあ」と感じた。この曲は上半身だけの動きが中心でメンバー同士の絡みの少ない振り付けなので、トロッコの上でも違和感がない。

 

* * *

 

最後に。

 

今回は、演出面、楽曲面、どちらも力の入ったバカ騒ぎだった。

今までにない演出が一つひとつ積み重なって「お祭り」になっていた。新しいアレンジや演出によって、楽曲の新しい姿が見えたライブだった。

「夏のバカ騒ぎ」なので五次元やGOUNNツアーのように、一つの深いテーマに繋がるように配置されたライブではない。けれど、たくさんの楽曲が「お祭り」という軸で、繋がっていた。

プロ相手にこんな言い方をすると失礼になるけれど、ももクロはメンバーもスタッフも含めて、絶えず変化し成長していくのだなあと実感した「バカ騒ぎ」だった。当然、見ているこちらも変わっていくのが面白い。

ほんとだ、早見あかり=宇佐美団長じゃん。祝『アゲイン!!』ドラマ化。

アゲイン!!早見と宇佐美

早見あかり(あかりん)が、久保ミツロウのマンガ『アゲイン!!』の宇佐美団長を演じる。久保ミツロウ早見あかりを当て書きしてヒロインの宇佐美団長を描いていた。アゲインとあかりん、早見と宇佐美。この共通点に気付かなかったことを悔やんで、あかりんと宇佐美団長の画像を並べてみた。

他の記事は「このやっかいな、 | 感情との付き合い。」 ここに置いています。もしよろしければ。

 

『アゲイン!!』は、先日完結した久保ミツロウのマンガ。

人と関わる意欲をなくし冴えない高校生活を送った今村金一郎が、タイムスリップし高校生活をやり直す(アゲインする)物語。入学式で宇佐美団長が気になり、声をかけられるけれど返せなかった今村。“アゲイン”した3年前の入学式では、思い切って団長に声をかけることで新しい物語が始まる。 あかりんが『アゲイン!!』に起用されるという記事で、久保ミツロウがあかりんに当て書きして宇佐美団長を描いていた事を知った。

久保ミツロウ 2011年に早見あかりさんがももクロを脱退すると知った時、女優を目指す彼女を何かしらか応援したい!とファン心で思いました。ちょうど「アゲイン!!」連載前だった私は、早見さんが演じてるような気持ちで宇佐美団長というヒロインを描いたんです。万が一ドラマ化することがあったら、その時は絶対「団長は早見あかりしかいない!」と叫ぶ気満々で。それから3年後、夢が叶いました!ありがとうございます!早見さんを迎えに来れて本当に本当によかった。 
コミックナタリー - 「アゲイン!!」団長役は早見あかり!着想時からの夢叶う

何てこった!確かに言われてみれば、そうとしか思えない。

何で気が付かなかったんだろうと、自分の想像力・妄想力のなさに落ち込んだ。俺は何を見ていたんだ。あかりんとアゲインの宇佐美団長を並べてみれば、そうとしか思えない。意志の強さを感じさせるまなざし、凜々しさ。

応援団の学ラン衣装を着た早見あかりと宇佐美団長。この画像見るだけで、楽しみだ。

宇佐美役の早見あかりアゲイン!! 宇佐美良子

ありがとう、久保先生、李闘士男監督。

久保先生は、映画『モテキ』でもTokyo Idol Festival 2010の『走れ!』を使うように大根監督に伝えてる。久保さんったら、ももクロの応援が、団長ばりにかっこいい⋯。

学ラン姿の早見あかり

今回、『アゲイン!!』では学ランに身を包んで応援団の団長を演じる。

実際、ももいろクローバー時代に、あかりんが発案した学ラン衣装をライブで着ている。

これがまた似合う。可愛い子が学ラン着たらそれだけで、何でか知らないけど可愛さが跳ね上がるんですけどね。

それがまた、『アゲイン!!』でがっつりした学ラン姿を見られるわけですよ。

早見あかり 制服

なるほど、早見あかり=宇佐美良子だった。

★横顔の透明感と唇

新津保建秀;第二音楽室

これは、新津保建秀氏撮影、佐藤多佳子×新津保建秀×pingpong projectの「第二音楽室」

アゲイン;宇佐美

よく見たら、眉毛といい、唇といい、耳の大きさといい、同じだった!だいたい、Hayami と Usami だし。
 
他にも、あかりんがどう演じるのかイメージしながら漫画の団長とあかりんの映像を並べてみた。
★かわいく跳ぶ

かわいく飛ぶ

かわいく飛ぶあかりん

応援するときの動きなんかを想像すると、こんな感じだろうか。普通の応援もあるだろうけど。

★凜とした表情

アゲイン;凜々しさ

Akari;凜々しさ

マンガでは、こういった団長のりりしい姿が何度も見られる。三の線もたくさん見られるけど。

★スカート

『百瀬、こっちを向いて。』から、ちょっと男目線で。 太ももアゲイン百瀬スカート

早見あかり 百瀬 スカート

あかりんの“横顔”映画。『百瀬、こっちを向いて。』

ちょっとここで、あかりんの初主演映画『百瀬、こっちを向いて。』の話しを。

この映画は、あかりんの透明感が満載だった。横顔がとにかく綺麗で印象的。

ストーリーや構成については割愛。

早見あかり;百瀬

男子目線でいえば、風に揺れるスカート、うなじ、スカートの奥へと続くことを想像させる太もも映し出すシーン。監督が「こだわりました」って言ってたとおり、引きつけられた。

映画館のトイレでリップを塗るシーンでは、唇を歪ませて柔らかさが強調されていた。

はっ!行き過ぎたかも…。

『アゲイン!!』宇佐美団長の“背中”。

で、話しは『アゲイン!!』に。

宇佐美団長は、つぶれかけた応援団を1人でもり立てようと奮闘している。「黙っていると可愛い」のだが、男勝りで熱くるしいと思われ周囲に敬遠される。1人で頑張るのはしんどいことで、心が折れそうになることもある。いざという時に、びびってしまうし、時に乙女心も見え隠れする。けれど、徐々に団員が集まり、団長を見て団員は奮起する。そんな団員たちを見て、学校の連中も徐々に応援団を「応援」する。

今村は、団長の「背中」をみて自分と自分の未来を変えてく。

ももクロのサブリーダーとあかりんの「背中」

ももクロ時代のあかりんは、サブリーダーとしてリーダーの百田夏菜子を支えていた。その頃の夏菜子は、自分だけ前に出るのを嫌がり、一歩下がってしまう。そんな夏菜子を前に押し出してサポートしていたのがあかりん。あかりんが女優への道を決意し脱退することを決めたときには、夏菜子だけでなく、他の4人も不安は大きかっただろう。あかりんの「背中」に心強さを感じていたのだと思う。

下の写真は、あかりんが脱退するライブの開演前の様子。あかりんは脱退を決めた当人なので気持ちの整理が他の人よりはついているだろう。けれど中心にいて、泣きじゃくるメンバーを支えているのは脱退する当人の早見あかり

あかりんが中心 

ももいろクローバー 4.10 中野サンプラザ大会 ももクロ春の一大事〜眩しさの中に君がいた〜

 

いま言った精神的な意味での背中だけではなく、あかりんの魅力として忘れてはならないのが、すこしがっしりとした肩と背中の広さ。

ほら、なんて格好いい後ろ姿。これは中野サンプラザでのライブ。

早見あかり;背中(中野サンプラザ)

『アゲイン!!』では、こんな姿がたくさん見れるんだと、今からワクワクしている。

あかりんは最初のホールライブでこんな事を言っている。男らしい自分はアイドルを名乗っていいのだろうかって。

あかりん: アイドルと呼ばれててもピンとこない。自分の中でファンの男の人たちよりも男らしいんじゃないかって思う部分がたくさんあるので、そんなわたしがアイドル…アイドルって名乗っちゃけないと思うんで。
〜2010年12月24日 『ももいろクリスマス in 日本青年館

『アゲイン!!』は後ろ姿のドラマ

あかりんの“凜々しさ”、“たくましさ”、“男らしさ”、“強さ”、そしてその象徴のような大きな背中。

整った顔立ちで、綺麗で、男の子っぽくて、少し大きな背中も、凜としたところも、三枚目なところもはっちゃけたところも、宇佐美団長と重なるところが多い。

そして、はかなげ で かよわさ も感じさせる。

それがそのまま魅力的な映像としてみられたらどんなにいいだろうかと期待して夢想している。

『百瀬、こっちを向いて。』が横顔の映画だとしたら、『アゲイン!!』は後ろ姿のドラマだ!。あくまで自分の中ではだけど。

こんな表情も見られるんだろうか。早くみたい。

なきギュ

P.S.

こんな場面もマンガにはあるけど、見たいような見たくないような⋯。

セクシー

 

* * * *

アゲイン!!(1) (KCデラックス)
アゲイン!!(1) (KCデラックス)
posted with amazlet at 14.06.15
久保 ミツロウ 講談社 (2011-09-16)
 

ぎゅーって抱きしめて、ふたつを合わせる『アナと雪の女王』。

アナと雪の女王(2014)』(Frozen, 2013) の自己流解釈とその理由。この映画はとても多層的に作り込まれているので、人によって見え方が違うし、どれが間違いというのでもなくどれも正しいものだろう。エルサのドレスや氷の城のように、この映画の輝きや響き方は人によってさまざまだ。「花咲く氷の結晶のように」 (frozen fractals, crystalized ice) 、その光はあちらこちらへと拡がってその人に届く。

英語のセリフや歌詞を追っていくと、キーとなる言葉が何度も登場している。何度も見返したいと思える作品。

自分なりのキーワードは、

  • 「ふたつ」と「ひとつ」。
  • 「ふたつあわせるともっといい」。相棒になる。
  • 自分を「ぎゅーって抱きしめる」。

物語の内容と核心に触れネタバレしています。

(※ ここは、wordpress このやっかいな、 | 感情との付き合い。 のはてな場所です。こちらに他の記事もありますので、もし見てもいいよという方はおいで下さい。)

Let it Go への違和感からはじまった物語への没入。

最初にこの映画を見たとき、エルサが物語序盤で決意をこめて、けれどどこか「捨て鉢」になって歌う歌が、ここまで世の中に受け止められていることが少し不思議だった。英語と日本語の歌詞の違いが気になり、日本語の歌詞に違和感を持った。

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〜Turn away and slam the door. The cold never botherd me anyway.

 

この違和感には、このtweetが端的に答えてくれている。

 

ちなみに、ディズニー公式のLet ig Go 直訳はこちらから確認できる。日本語版の歌詞とはかなり違う。

映像や文化に合わせるために、すくい取れなかったもの、あえてすくい取らなかったものあるのだろう。

 


『アナと雪の女王』特別映像:「Let It Go」/イディナ・メンゼル - YouTube


『アナと雪の女王』特別映像:「Let It Go」/イディナ・メンゼル - YouTube

 

※英語の意味を考えているときにこのサイトを参考にさせて頂いた。〜Let it Go - Idina Menzel 歌詞の和訳とちょっとした解説 | 洋楽カフェ"Let it go"と「ありのまま」の違い

ここから先は物語の核心に触れている。

 

 

エルサとは?。真実の愛とは?

自分の解釈を先に述べてしまうと、エルサとアナは心のふたつの側面

言い方を変えれば、「アナの凍り付いた心が“エルサ”」

そして、“真実の愛;True love”とは、「自分を愛する気持ち・自分を大事にする気持ち」

* * *

最近、中森明夫氏がエルサとアナは同一人物の別人格という意見を述べた(参考1 togetter参考2 ラジオ文字起こし )。けど、この考え方自体はさほど突飛なモノではない。どう書いたって後出しジャンケンにしか聞こえないだろうけど^^;。

この発想は、“トラウマティックな体験(心理的な外傷体験)をした人が、記憶を無意識のレベルに閉じ込めてしまい、感情を抑圧する”という文脈において、言い方は変だけれど「ポピュラー」な発想だ。トラウマによって過去を「忘れて」しまったり、いわゆる「多重人格状態」になるという展開は映画やドラマにたびたび登場する。

* * *

「エルサ」とは、「アナの内面にわきあがる自由で率直な感情や衝動」である。あまりにも強く、制御不能であるために、本人も受け入れがたい。その感情や衝動をあまりにも強く抑え込んでしまい、決して表には出てこない。その感情があったことさえ覚えていない。後の方で、そういう生き方しか出来なかった人の例をあげている。

映画自体は、トラウマティックなものが具体的に描かれているわけではない。でも描いていないからこそ、見た人が様々な角度から自分に引きつけることが出来る。自分らしさを押さえつけて、世の中に合わせて生きてきた人を解放する映画になる。姉妹の物語にもなる。

僕自身の見方としては、「抑圧していた“やっかいな”自分の感情」に気付いて、認めて、折り合いをつけて「ひとつ」になる物語だ。

そしてこのあと、どうしてこう解釈できるかという理由を長々と書いていく。

I. エルサとは? では、「アナの凍り付いた心が“エルサ”」だと思える理由を挙げていく。

II. 真実の愛とは? は、真実の愛=「自分を愛する気持ち・自分を大事にする気持ち」だということを説明する。

III. よくもありわるくもある では、キーワードとなるセリフをつないで、この映画のテーマを考えてみる。

I. 「エルサ」とは?

なぜ、「アナの凍り付いた心がエルサ」だという見方ができるかというポイントをあげていく。

まず、この2人のキャラクター。

  • ドアで隔たれるアナとエルサ。白い髪の理由を知らないアナ。 [A]
  • クリストフとスヴェン。クリストフが喋る“スヴェン”。 [B]

アナは、なぜエルサと遊べないか、なぜ自分の髪の毛が白いかを覚えていない。そしてスヴェンの言葉も話すクリストフという存在。

* *

次に。物語の構造として、相棒を求めるキャラクターと、対立する「ふたつ」がいくつも登場する。

  • 「ふたつ」と「ひとつ」」の構図。 [C]

さらに、オラフという存在がいる。

  • 「ふたつ」を「合わせる」身体がバラバラのオラフ。[D]

そして、この映画はよくよく見てみると、英語のセリフ、歌詞に手がかりとなるキーワードが形を変えて何度も登場している。

  • 英語のセリフや歌詞にあるちりばめられた物語のキーワード [※]

では、それぞれの点を説明してみる。[※]の英語のセリフ・歌詞については、その都度触れていく。

ドアで隔たれるアナとエルサ。白い髪の理由を知らないアナ。[A]

アナはエルサのいるドアをノックし続ける。「雪だるま作ろう、一緒に遊ぼう」と呼び続けるが、エルサは部屋から出てこない。そして、力を隠し部屋に閉じ込めるように命じた両親は死んでしまう。

アナは、エルサが自分を遠ざけている理由を知らない。自分の髪に白いところがある理由も知らない。生まれつきだと思っている。

つまり、アナの白い髪は「凍り付いてしまった心」を示している。ドアの向こうに閉じ込めてしまい、底に触れることは出来ない。ドアの向こうのエルサとアナの白い髪の毛は、「心の奥底に閉じ込めた過去・感情」の象徴である。

過去に何かあったという痕跡に気付く“しるし”はあるけれ、それがなにか・どうしてなのかは分からない。

ドアの向こうに閉じこもったのはエルサではなくて、アナ自身が閉じ込めて遠ざけてしまった過去の感情。おそらくそうでなければ生きていけなかったから、自分を守るためにフリーズドライしたのかもしれない。それを描いてはいないけれど。

 

* * *

ここで、心を閉ざすことで自分を守っていた人の話を例としてあげておく。

僕はむかし、「生きづらさ」を抱えている人〜親や世の中とうまくいかない人(主に青年期から成人の女性)〜の話しを聞く機会があった。

かつて出会ったAさんという20代前半の女性は、とてもかわいらしく笑う人だったのだけれど、「周りの人と話すときは絶えず笑っていなきゃいけないと思うから、疲れるんだよね」と言っていた。

Aさんは学校に通っている頃から、周囲とうまくやれずに苦労していた。Aさんが自分のその時々の感情をそのまま出してしまうと周りと衝突や軋轢を生んでしまうので、何時の頃からか「笑顔の仮面」を常に身につけるようになった。自分らしさと世間との折り合いのつけ方がうまくいかずにしんどそうだった。なにより、悲しみや不安、怒りなどの強い感情が渦巻くので、彼女自身がその感情に振り回されて疲れ果ててしまっていた。だからできるだけ「感じないように」して、「笑顔を付けて」生きていた。

周囲とはあまり関わらないように親元を離れて一人暮らしをするのだけれど、自分をもてあましてしまい、自分の生活さえままならなくなってしまう。生きていくために仕事をするのだけれど、たえず笑顔でいるなんて大変なことだから、やっぱり時々つらくなって感情が“爆発”してしまい、結局周りとうまくいかなくて、入院したりしていた。

そうなると、「やっぱりうまくいかなかった。感情を抑えて、笑顔の仮面をつけていないとだめなんだ」、と前よりも強く思うようになってしまっていた。

そうやって自分の感情に気付かないフリをして過ごしていくと、Aさんの感情は本当に動かなくなり、まさに「凍って」いった。負のスパイラルから抜け出すのにはかなり時間がかかった。

* * *

話をもどす。ドアをノックし続けるアナは、ずっと自分の無意識にあるものに触れたかった。けれど、どこかで隠さなければという気持ちも強かった。

それが示されているのが、アナとエルサが戴冠式で交互に歌う場面。アナは「自由に暮らせるの 生まれてはじめて」と心躍っているけれど、エルサは「ひとりでいたいのに 隠し通すのよ」と歌う。「全てを変えよう」—「だめよ」と、葛藤するこころのように二人の歌は裏表で重なり合う。

アナが、エルサの手袋の片方取ってしまい、力の片鱗を世の中に見せてしまう。「エルサ」をこじ開けて表に出してはみたものの、コントロールできない力は周囲から怪物や悪魔のごとく扱われる。そしてエルサは一人で生きることを決意する。

クリストフとスヴェン。クリストフが語る“スヴェン”。[B]

—❖ひとりの中に複数の面があることを示すクリストフ

砕氷職人のクリストフと、トナカイのスヴェン。クリストフは“スヴェン”と話しているが、全てクリストフの一人語り。

クリストフと“スヴェンというキャラクターは、別々の側面・特質・人格 が同時に人の心の中に存在していることを示している

クリストフは、人との交流が苦手で、トナカイと暮らしている。「人間はろくでなし トナカイの方がマシ」と、人間嫌いの一面を見せるクリストフ。家族はトロール。

ろくでなしさ 人間は スヴェン どう思う?
"そう あいつら すぐ おれたちをなぐるんだ でも あんただけは違う"

人と交流せず、一人を選んでいるのは「自分は他の人間とは違う」からだと理由づけるクリストフ。

—❖自分と対話できるクリストフ。けれど未熟な「ひとつ」

「独り言」をしゃべり、語り合う友だちがいない。孤独ではある。

けど、ある面では、クリストフは内なる自分と対話できる。

狼を振り切り、その後もアナを助けるかどうかを迷う場面。クリストフは 「だれも助けたくはない」と言うけれど、「そしたら彼女は死んじゃうよ」と“スヴェン”が答えて、助けることを決める。

自分の中に“スヴェン”がいるクリストフは、問題に出くわしたときに、“スヴェン”と対話することで解決を導くことが出来る。自問自答することが出来る。

クリストフはスヴェンを「相棒(buddy)」と呼んでいる。自分自身と会話し、自分の中に「相棒」がいる。 他の人と繋がれていないけれど、自分とは繋がっているクリストフ。

他の人と繋がれないのは“未熟さ”でもあるけど、自分と「ひとつ」になっているのがクリストフだといえる。

アナはエルサと交われず、クリストフは他の人と交われない。そんなアナとクリストフが出会う。

—❖「どっちもスヴェンなんだ」。「ひとつ」でいると楽なこと。

オラフが、アナとクリストフ(スヴェン)に出会ったとき、こんな会話をしている。日本語はうろおぼえ。

オラフ: この変な顔してるのは? /And who's the funky-looking donkey over there?
アナ : スヴェン。/That's Sven.
オラフ: じゃあ、こっちのトナカイは? /Uh-huh. And who's the reindeer?
アナ : ⋯スヴェン。 /Sven.
オラフ: どっちもスヴェンなんだ。/Oh, the... Oh. Okay. That makes things easier for me.

Donkeyにはロバという意味と間抜けという意味がある。オラフが「あの変な顔の donkey  は誰?」って言うもんだから、アナは最初トナカイのスヴェンの名前を教えるが、次に「じゃあ、あのトナカイは?」と言うので、またスヴェンと答えるしかなくなり、どっちも「スヴェン」になっちゃうコミカルな場面。

会話の流れとしては、「同じ名前なんだね!」だったり、「どっちもスヴェンなんだ」っていう意味が日本語としてはしっくりくる。

けど、直訳では「そいつは楽ちんだ」という意味。単純に受け取れば、「どっちも同じ名前だと、わかりやすい」程度の意味だろう。

けれどこれは、「クリストフ=スヴェン」ということを暗に示している場面なのではないかと感じた。

もっと言うと、「That makes things easier for me」 というのは、「人格が別れていないのは楽だよなあ。内なる自分と話が出来るって楽だよなあ」って意味を含んだセリフなんじゃないかと“勘ぐって”いる。

“アナとエルサは小さい頃からドアで隔てられ、対話できず分離していることがやっかいだよね”、と言いたいのかもしれない。

まあ、「人格が別れていないのは楽だ」という点は言いすぎか。英語の肌感覚もないのに、字面でこねくり回して考えすぎかとも思う。

けど、どっちも同じ名前になってしまったのは、「ひとつ」であることを示しているのだろう。

そして未熟なクリストフと“スヴェン”だから、人間の名前が付かずどっちも「スヴェン」になってしまったのかもしれない。

クリストフが初めてオラフに「クリストフ」と認められるのは、「家族」のトロールの元へ行ったときだ。それまでオラフにとってクリストフは、「スヴェン」だった。

—❖クリストフとスヴェンが「ふたつ」になる瞬間。

アナが真実の愛を求めてハンスの元にいった時、クリストフは“スヴェン”(クリストフの内にいる存在)の言いたいことがわからなくなる。トナカイのスヴェンはクリストフを背中に乗せようとするが、クリストフは一回拒否する。内なる“スヴェン”はアナを助けることに踏ん切りがつかず、トナカイのスヴェンは助けることを決めている。内なる自分の“スヴェン”と、トナカイのスヴェンが別々の主張を持っている。

けれど最終的に、クリストフがみずからアナを助けに走り出す。

内なる“スヴェン”はクリストフを投影しているので、迷いも多い。この場面は、クリストフが未熟な内なる“スヴェンから独り立ちし、自分の人生を決める責任を背負った場面だと感じた。

それまでクリストフは、自分と対話していながら、“スヴェン”に決定を委ねていた。

氷の城に向かうアナを助けることを決めたとき、スヴェンに対して「時々本当にお前が嫌いになるんだ」 と言うクリストフ。自分と対話して納得しているようでもあるが、“スヴェン”はクリストフにとって「逃げ道」でもあった。自分の気持ちに嘘をついていたのかもしれない。

自分で決め、表現する(表に出す)ことから、どこか逃げていた。

例をあげれば、言葉のしゃべれない子どもやペットの口を借りて、「お父さん(お母さん)はひどいね〜」と、夫(妻)に自分の意見を伝える妻(夫)みたいなものだ。(自分で言うと角が立つので、それを避けるという効用は置いておく)。

自分からアナの元に駆け出す場面は、“スヴェン”に責任をもたせるのではなく、クリストフが自分自身で責任をもった瞬間を描いている。

クリストフが自分で決める責任を背負ったことで、内なる“スヴェン”とトナカイのスヴェンが「別々」になる。クリストフがちゃんと「ひとり」になることで、他の人たち・外の世界とつながることが出来るようになる。

それを受けてか、アナを助けに来たクリストフを見て、オラフは「 クリストフとスヴェンだ! 」と叫ぶ。別々の存在として認めたかのように。

「ふたつ」と「ひとつ」の構図。[C]

—❖“相棒 (Buddy) ”をもとめるキャラクター

対立していたり孤独でありながらも、ここに出てくるキャラクターは、「相棒」を求めている。

子どものアナが、エルサに雪だるま作ろうと誘う場面では「We used to be best buddies」と歌っている。昔、アナとエルサは最高の相棒(仲良し)だった。そしてまた仲良しになることを望んでいる。

クリストフに人間の友だちはいないけれど、スヴェンを「相棒 (Buddy) 」と呼ぶ。

Buddyという言葉はこの物語ではキーフレーズ。

登場人物たちは、対になるもう「ひとつ」=相棒をさがしている。

—❖「ふたつ」と「ひとつ」。

この物語に出てくる「ふたつ」のキャラクターどうし。アナ—エルサ。クリストフ—スヴェン。

アナ—エルサは、相手を認められず交わることができない「ふたつ」。それぞれが「同じ」であることに気付いていない。「ひとつ」になれない。

クリストフ—スヴェン。内なる“スヴェンはクリストフ。”「ふたつ」のようで「ひとつ」。クリストフにとっては、“スヴェン”とスヴェンが「別々」になっていない。世の中と繋がれない「ふたつ」。

どっちも何かがたりなくて、未熟ではある。

—❖対立するふたつの「価値」

そして、エルサとクリストフそれぞれの内面にも、ふたつの「価値」が対立している。最初は、交わることのない対立するふたつの価値(人生の意味、幸せ)。

エルサは、「ありのままで」自分らしくいるために孤独(雪の女王)を選んだ。「トナカイの方がずっといい」というクリストフは、人間の相棒を見つけられない。

エルサもクリストフも、

 自分らしく自由に生きること VS 社会で人に合わせて生きていくこと

という「対立」の中で生きている。

それはオラフもそう。雪だるまのオラフは、冬にしか存在できない。けれど自分が溶けてしまう夏に憧れる。

 冬 VS 夏

このように、物語のあちこちに、一見“真逆”で対立する「ふたつ」が存在する。

「ふたつ」を「合わせる」、身体がばらばらのオラフ [D]

そしてこの物語の中でオラフは、別々の「ふたつ」を「合わせる(togther)」キャラクターだ。

「ドアをノックすればいいんだよ」と、アナとエルサの仲を取り持つ。アナとクリストフの仲も取り持つ。

オラフは「二つあわせたらもっといい」と歌う。

暑い夏と 寒い冬      ;  The hot and the cold are both so intense 
二つ合わせたら もっといい ;  Put 'em together, it just makes sense

オラフは「別々のものが合わさって」できていて、なにかあるとバラバラになってしまう。

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そんなオラフが「ふたつ」をつなぐのが象徴的だ。

II. 真実の愛とは?

さて物語の核心だけれど、この映画における「真実の愛」とは何なのか。

今まで言ってきたように、「エルサ」とは、アナの「内面にわきあがる自由で率直な感情や衝動」だ。自由だけれど制御も出来ず手に負えないほどのエネルギーであるため、強い力で抑え込まれ、決して表には出てこなかった。Let it Goで「Conceal, Don't feel」〜隠して、感じないで〜と歌っているとおりだ。

エルサの力をそのまま表に出してしまっては「怪物」扱いされ、社会ではうまくいかない。かといってアナも、戴冠式の朝は頭がぼさぼさでひどくだらしないし、出会ってすぐ婚約もする。コントロール(自制)のかけらもない。アナもアナで、世の中でうまくやっていくのは大変だ。どっちも「完璧 (perfect)」じゃない。

「アナ」は「自由で率直な強い感情=エルサ」を抑え込み、そんな感情があったことさえ忘れている。世の中への扉は開いているけれど、「エルサ」への扉は閉まっている。

けれども最後は、「アナ」が「エルサ」の盾になる。「エルサ」という「自由で率直で強い感情」を認めて守ったのは、「アナ」。小さい頃に傷ついてしまった自分自身の心をみずから守った。

アナが「自分の感情をいとおしく思う」気持ちを持った場面だ。

こうやって言うと、小難しくて説教くさいんだけれど、オラフ流に言えば自分のことを「ぎゅーって抱きしめた (warm hug)」 瞬間だ。やるなあオラフ。

III. 「よくもありわるくもある」

この映画は、セリフや歌が緻密に積み上げられ、物語を読み解くキーワードがちりばめられている。ここまでで書き切れなかった部分を、少し説明してみる。

キーワードは、「理想」、「FIX」、「よくもありわるくもある」、「Put 'em together, it just makes sense」。

* * *

といいつつその前に、ちょっとたとえ話を。

「理想」を持つのは大事なことだけれど、「今の自分は理想じゃないからダメだ」、「ここでは自分らしく生きられない」、「このひとは自分を認めてくれない」という気持ちが強いと、逆にしんどい。

理想の自分や理想の環境を求めすぎてしまうと、今の自分に満足できず、自分を認められず自分を好きになれない。「今の自分」は「完璧な理想の自分」とはほど遠いので、うまくいかないときに落胆も大きいし、自信も持てない。そうなると、「今、その時、その場所の自分」にはマイナス点しか付かない。どこにいても自分の居場所がないように感じてしまう。それって結構しんどいことだ。

* * *

この物語には、そんなことがキーワードとして何度も登場しているようにおもうのだ。

Perfect (完璧) じゃないものを Fix して(直して) いく

—❖ Perfect :完璧であることの苦しさ

エルサは完璧であろうとした。Let it Go の英語詞はこうなっている。(訳は、ディズニーがYoutubeに公開しているもの。)

Be the good girl you always have to be /いつも素直な子で
Conceal, Don't feel, Don't let them know /感情を抑えて隠さなければ

最後には、That perfect girl is gone (理想の娘はもういない) と歌う。

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英語版を歌う Idiana Mensel は、good girl, perfect girl どちらにも強いアクセントを置いて歌っている。

エルサが完璧であろうとして苦しんできたことから解き放たれ、生き方を大きく転換する場面。

—❖ Fix :手直しすればいい

クリストフも完璧じゃない。トロールたちが、クリストフをアナに彼氏として売り込むときに歌うのは、「Fixer upper」。

Fixer Upperとは手直しが必要な物件という意味。日本語のサントラでは「愛さえあれば」というタイトルで、「完璧じゃない」という訳がついている。

FIXというキーワードはアナも言っている。

アナは、氷の城に閉じこもったエルサに 「We can fix this hand in hand」と呼びかける。

今の状態が完璧じゃなくても、手直しして、FIX すればいい。

そう、バラバラに壊れてもまたくっつけて元に戻すオラフのように。

よくもわるくもある。foul and fair.

最初は気付かなかったのだけれど、砕氷職人たちは、最初っからこう歌っていた。

This icy force both foul and fair has a frozen heart worth mining!
(※日本語の歌詞は「きれいで固い」)。

foul, fair=野球でいうファールとフェア。シェイクスピアマクベスで「Fair is foul, and foul is fair」というセリフもあり、対になる言葉。

氷の力は、「よくもありわるくもある」。 (foul=汚い、悪い。fair=きれい、よい)。

真逆に見えて対立している「ふたつ」は「ひとつ」のものの別々の面、“「ひとつ」のものには「ふたつ」の側面がある”というテーマは最初から示されていた。

そして、氷の力の中にある凍った心 (frozen heart) 掘り出す価値がある (worth mining) と。

オラフが一番、「もっといい」。

オラフは最後、自分だけの雪雲を手に入れる。夏と冬が一緒になる

エルサの力を使っているので、ずるーい!と言いたい気もするけれど、これによってオラフは自分の行く場所すべてが夏でもあり冬でもある。溶けることなくそこにいられる。

どこにもない「理想の場所」を求めてさまようのではなく、自分のいるところすべてが「自分の居場所」になる。

「The hot and the cold are both so intense.  Put 'em together, it just makes sense」。(オラフが歌う『In Summer』)

“真逆”にみえる「ふたつ」が折り合えたらとってもいいのだ。

自分の中にある“別々”な部分をぎゅーって抱きしめたら、もっといい。

 

* * *

おまけ。

そうそう。最後にアレンデール王国は、気持ちのよい夏なのにスケートも出来る国になっちゃう。オラフよりも「おとぎ話的」でずるい(笑)。というか、ラストシーンのアレンデール王国こそ、いろんな価値が同時に存在することの出来る「夢の国=ディズニーランド」なんだと示しているようでもあったりして^^。

日曜×芸人:“イジられる”若林の変遷。若林が愛される理由。

「イジられる」若林のロードムービーでもあった「日曜×芸人」が終わった。この番組が始まって3ヶ月が経った頃、彼は自分はイジられる人だと気付いた。僕はイジられる若林に「困惑」を見ていたのだが、それは自分の投影であったのかもしれない。

 

日曜×芸人」の3人の組合せが新鮮で好きだった。無尽蔵のエネルギーで暴走するザキヤマ。それに乗っかって好き勝手やる、普段あまり見られないバカリズム。そして、進行を邪魔されイジられる若林。 2年間続いた番組は2014年3月30日、最終回を迎えた。

結局、徹底的にイジられた最終回

3月23、30日の最終回企画。MC 3人は温泉へ。3人への慰労と企画を振り返る流れ。慰労といいつつ、若林は最後までイジられていた。

半沢直樹の「倍返し」をふられ「今時期一番きつい」と言いつつも、表情を作って「やられたらやり返す⋯」と始める若林。そのとたん、バカリズムが「結構ガチじゃん」とちゃちゃをいれるのだが、それでも若林はやりきり、「俺の助走の最中に結構ガチじゃんって言うのヤメて。助走やめようかと思った」と笑う。

ザキヤマバカリズムは若林の母親が普段作らないような弁当を作ってしまったことを引き合いに出して、「テレビに映るときに自分を大きく見せちゃう」家系だとまでいう。さすがにこれには若林も「一族で行きますよ」と反撃。

最後には二人からどじょうすくいを求められ、その上「若林君から言い出した形にしてくれないかな」と頼まれる。「そうじゃないといじめてるように映っちゃうから。そうしないと“若様ファンから(クレームが)来るから(笑)」とバカリズム「うちのばあちゃん言ってたもん、“あんたイジメられてるね”って(笑)」と返すが、それでもどじょうすくいの流れは止まらない。

気持ちを固めて「どじょうすくい、やらしてください!。俺にどじょうすくいやらせてくださいよ〜」と胆の座った声色で言い出すが、ザキヤマバカリズムは、振ったくせに上から押さえつけてやらせない。若林は「気持ち固めたんですよ」と言って屏風裏にスタンバイし、最終的には音楽も手拍子もなく、どじょうすくいを踊って番組は締めくくられた。

日曜×芸人終わりだよ 

 

どじょうすくいをやりきった若林 

楽しそうな表情が印象的だ。けれど⋯。

「決意したんだな」「やらないと終わらないじゃん」

気持ちを固めてどじょうすくいを踊るのだけれど、決意をするまでの葛藤も見え隠れしていた。 バカリズムには「今まで守っていたところを譲ろうと決めた」と言われるが、「やらないと終わらないから」と、完全に受け入れてはいないような口ぶり。芸風を「全カスタムして」「落として」どじょうすくいをやったと。

バカリズム:(若林は) 俺の中ではどじょうすくいする人じゃない。どっかで自分の中で決めたんだな、やっていこうって。これからもこういうフリは絶対来るから、この番組に関してはこういうのやろうって決意した感じはあった。一人だけ裸になったり、この番組で汚れることを受け入れるようになった。

若林:言わしてもらうけど、やらないと終わらないじゃん(笑)

バカリズム:だから決めたんだなと。この番組に関しては若林が今まで守っていたところを譲ろうと

若林:(芸風を) 全カスタムしてどじょうすくいやってるんですよ。すごい落としてますよ(笑)

番組放送後のYoutube配信 『最後にぶっちゃけトークでポジティブ!』#50-2

「イジられる」ことには、それなりの思いがあることを2014年4月5日のオールナイトニッポン(ANN)で話していた。

笑っていいともでは、イジられても対応できなかった

ANNでは、「笑っていいとも!」が最終回を迎えたことをうけ、「いいとも」レギュラー時のことを振り返っている。

2009年10月にオードリーは「笑っていいとも!」のレギュラーになる。

「いいとも」の放送終了後、若林がイジられることが続いていた。「春日がいじられて、それに対してツッコんでいかないと、オードリーとして出ている意味がない」と焦っていた。若林が春日のキャラクターをイジる時期であり、いじられながら「これはやばいぞ」と思っていた。

「いいとも」のコーナー司会をするが、ままならない若林。イジられても、「うまく」進行することに意識が向いていた。

この時期若林は「『いいとも』でどうすればいいか、悩んでた」 と語っている。

若林:タモさんも、イジってくれてたんだよね。『お前の言葉は覇気がないから、ドライブしていかないんだよ』って言ってくれてたから。「そしたら、みなさん合わせてくれたら良いでしょ!みなさん、ベテランなんだから!」とか言えば良いものを、「それはそれとしてね…続いてはですね」みたいな(笑)。

春日:勿体ない。

若林:なにやってんだよ!って思うよね(笑)。

〜2014年4月5日 オードリーのオールナイトニッポン (以下、断りのない引用はこれに同じ)

「イジられらばいいのよ」

その後も、イジられることについての話は続く。 2012年夏頃。「日曜×芸人」が始まって3ヶ月ほど経った時期に、若林は自分は「イジられる人」だと気付いた。

若林:日曜×芸人の1クール終わるくらいで、俺はイジられる人なんだと思ったんだよね。それまではあまりそういう意識なかったんだよなあ。ザキヤマさんと升野さんにイジってもらって3ヶ月位したときに気付いたんだよね。これはフリなんだなって

「いいとも」レギュラー時には「それはそれとしてね…続いてはですね」と進行を優先させていた。しかし2014年4月5日、「笑っていいともグランドフィナーレ」後に行われた「タモリ倶楽部」の収録では、タモリに進行を“遮られ”イジられても、「ちょっと聞いてくださいよ」と、ツッコんで返している。

若林:今日もタモリ倶楽部で絡めてさあ。俺が調子こいてるときに、(タモリさんが)突然「なんだお前それ」っていうときあるじゃん。昔だったらやばいって思ってたの。でも今はさ、「ちょっと聞いてくださいよ」ってなるもんね(笑)。

日曜×芸人」の終了、「笑っていいとも!」の終了、「タモリ倶楽部」の収録を振り返って、“イジられること”を受け入れ、“できないことは出来ないと言う”ことを受け入れている。

若林:終わって今、気づいてる。イジられればいいのよ。イジられて、ムリだったら『ムリです』って言えばいいし。

今となっては「いいとも」で出来なかったことを、「凄い悔しい」「もったいない」と言う。その後も、「今考えたら、凄い機会・チャンス。今考えれば存分にイジられていけば良かったのに」と何度か口にしている。

「イジられて育ってこなかった

イジられてもうまく返せないことを、「あんまりイジられて育って来なかったのがよくなかったのかもしれないよね」と話している。 もともと若林は、盛り上げるタイプの人たちを“はす”から見ているタイプだった。そして若林から見て、「いいとも」は盛り上げるタイプの人たちが集まる場所。

若林:俺、学校の文化祭でステージに上がって、ガンガンに盛り上げてるAとかB(当時の同級生)を俺らは校舎のベランダから見て「あれはちょっと違うよな」とか言ってたよな(笑)。そんなタイプだったじゃん、俺ら。でも『いいとも』って、あそこで盛り上げてる人たちの場だと思うんだよね。空気的に。

若林:「いいとも」って、お客さんもそうだけど、超盛り上がってんじゃん。スタッフさんとか、打ち上げも学祭の打ち上げみたいだし。やっぱり、俺は超隅っこの超後ろにいる人だから

自分に鋭角にツッコむ若林

日曜×芸人の最終回、バカリズムに「ちまたでは斜めからの角度で行く感じだけれども」と言われている若林だが、自分のそっくりさんと打ち上げに参加した際に、そういう自分を客観的に見つめている。「世の中をこまっしゃくれて」見たり、相手が何の気なしに言ったことに「それって何?それってどういうつもりで言ってるの?」と鋭角に攻めていくところが自分にはあると客観視した若林。

若林:あそこまでそっくりさんを見ると、(自分は) 腹に何か据えかねたものを持ってるというか、こまっしゃくれた感じで世の中を見てる、みたいなのがあるんだよね、だから、何気なく『あれ、あぁだよね』って喋ったことに、『え?何っすか、それ?』って言ってきそうな感じっていうのを、初めて客観的に感じられた(笑)。

中心にいるよりは、どちらかといえば中心で盛り上がる人をイジる側にいた若林。

けれどそれだけではなくて、若林はその時々の自分を冷静に見つめ、なんなら“はす”から「鋭角」に自分に対してもツッコんでしまう

「いいとも」という華やかな舞台の「中心」にいる自分への違和感を持っていたのかもしれない。

冷静に客観的に分析するタイプの人は、自分に対してもメタ視点でツッコむ。相手の言動にツッコんでいるのだから、それと似たことを自分がした場合、自分へのツッコみが発動し、硬いブーメランが自分の後頭部に突き刺さる。

「今のままでいい」

司会が出来る自分を見せたかった。盛り上がりの中心を遠く斜めから見ていた。イジられて育ってきてない。そんな自分が「中心」にいることの違和感。 「いいとも」レギュラー時は理想が高かったが、今となっては、「司会もできる自分」という理想をいったん置いて、「あの時の俺の」自分で勝負すれば良かったんだと振り返っている。

若林:凄い悔しいのはさあ。司会を何度か「いいとも」のコーナーでやらせてもらったことあるのよ。それで、あの当時、若林は何を天狗になってそう思ってたのか、「司会もできます」ってことを、お客さんにもタモリさんにも、スタッフさんにも知ってほしいってことで、物凄い手カンペを読んでたんだけどね(笑)。⋯ 若林:でも、そうじゃなくない?司会がままならず、タモさんとか草なぎさんにイジっていただいて、「いや、できてるじゃないですか!」ってやれば良いのに。あの時の俺のランクだったら。それなのに、何を偉そうに「さぁ!トップバッターはですね…」とかね(笑)。何を偉そうにね(笑)。

これは、2011年8月上演の「芸人交換日記」、作・演出の鈴木おさむに言われたことも大きく影響しているのだろう。

若林:芸人交換日記で言ってくれたのは、「いろんな事を考えてるから、素で出てくれればいいから」って(言われた)。「人間っていうのは元々いろんな事を考えてる、若林の今のままでいい」って言われたらすげえ楽になって。

こんな出会いと経験を経て、「無理ですって言えばいい」、「若林の今のままでいい」という気持ちを持つようになった。 それが「日曜×芸人」最終回の、「やらないと終わらないじゃん」「すごい落としてますよ」に集約されているのかもしれない。イジられて困る姿も見せている。「気持ちを固めたんですよ」と、葛藤の過程を無理に隠さず言葉に出す

自分の内面を旅する若林

若林がお笑いをやっていくベースにあるのはネガティブな部分だという。そしてその興味はそのまま番組やお笑いライブなどにも反映している。2010年、「潜在異色(せんざいいしょく)」というユニットライブをした時期、「僕がお笑いをやっていく上で踏み台にしてるのは、フラストレーションとか苛立ちとか自分のネガティブな部分」と話している。(2010年「Splash Vol.3」 )

2011年12月から放送されているCSの「おどおどオードリー」では、3回目から精神科医や心理カウンセラーを招いている。精神科医・名越康文を招き、若林は付箋だらけの彼の著作を手に質問をぶつけていく。

山里亮太との「たりないふたり」もうそうだが、若林はずっーと自分自身についての興味を強く持ち続け、自分の内面への旅そのものを見せてきた

自分の否定と肯定をそのままさらす

芸人は突き詰めれば自分の「欠落」を見せることが生業になる仕事なのだろう。そして、手の内を曝していると視聴者に思わせるのがテレビであり芸人だということもわかっている。ファンタジーの部分だ。

「山ちゃん、俺、ラジオから徐々にやってる最中だから言わないでよ。これ(毒を出さないと思われていること)は破らなきゃなとは常々思ってるんです」(2014/1/9 ナカイの窓 ゲストMCスペシャル」)と、敢えて手の内を曝すこともしている。

けれど、それ以上に若林は「思わず曝してしまっている」のではないかと感じさせる。

若林は、「目の奥が笑ってない」「深い闇がある」と言われながらも、結局そういった自分をそのまま見せている。内面が覆い隠されているようでありながら、それをひっくるめて手の内がばれてしまっていると感じさせる。

そうやって「若林正恭」という人が見えてくるように感じる。若林が一部のファンから「若様」と言われるほどにアイドル視されるのは、「欠落を抱えながら成長していく」さまを見せているように映るからではないだろうか。

自分の内面を見つめることが、どこかでそのまま若林の芸に繋がる。それ自体がイジられてしまう。内面や奥底は見えないのかもしれないけれど、結局その葛藤が見えているような気にさせてくれる

日曜×芸人」で号泣した姿が放映された後、若林は「俺の好感度だけ上がって欲しかったんですけどね」と、泣いた事への計算も持っていたと話している。一方で何で泣いたか分からないとも言っている。

若林:(泣いたことで) 俺の好感度だけ上がって欲しかったんですけどね

バカリズム:好感度めっちゃ上がってましたよ。

若林:それは俺も狙ってたところなんでありがたいです(笑)。⋯ 泣いた時は複雑にいくつかの感情が絡まってて訳分かんなかった。(泣いた理由の一つは) この企画どうしたらいいんだろうと思ってた、どうなったらわーってなるんだろうって思ってた。

バカリズムオールナイトニッポンGOLD 2013年10月17日 ゲスト:オードリー

視聴者から見るといい意味でのアマチュアイズム、非予定調和感を感じさせる。「手慣れていない」と感じる「隙」を与え、それが新鮮に映る。もっと言うと、どこかで視聴者が自分と重ね合わせるとこができる。

自分が若林がこの番組でイジられてモヤモヤしていたのは、若林に自分を投影していたからなのかもしれない。若林の思い通りに事が進まないことを、自分に置き換えてみていたからモヤモヤしていたのかも知れない。

「自分の意見に反して“ほんとそうですよね”って相槌うつのが他の人より疲れる(Splash)」と、社会的な関わりの中で「ペルソナ(仮面)」をかぶることに抵抗感を持っている。それが葛藤が見えるように感じるところだろうか。おそらく、それの最たるものは「社会人大学人見知り学部 卒業見込 」に書かれていいることだろう。

「隙」があり「欠落」を感じさせ、視聴者にとってどこか自分と重なると感じ、自分の延長線上にいるかと思わせる若林。

だからこそ、「若林正恭」という人が愛されているのだろう。

* * *


 

 

 

社会人大学人見知り学部 卒業見込 (ダ・ヴィンチブックス)
社会人大学人見知り学部 卒業見込 (ダ・ヴィンチブックス)
若林正恭

 

あの空でつながった。想いを増幅更新する素晴らしい装置。ももクロ国立競技場。

国立 最後の挨拶

国立 最後の挨拶 「ありがとうございました!」 natalie

 

要約 ももクロ、国立競技場ライブの個人的振り返り。長い余韻からようやっと抜け出している。あの瞬間に立ち会えた喜び。国立の空でつながった気持ちは幻想でもあり現実でもあった。親しみとあこがれを同時に感じるももクロ

叶った夢。言葉が見つからない。

ももクロ、国立2Daysライブを自分なりに振り返る。初日はLV、2日目は国立競技場に行くことが出来た。

しおりんが持ってきた嵐のDVDを見て、国立競技場でのライブが夢となり、2011年2月9日のフロム中武のライブで「国立川」が生まれた。2013年1月2日に国立を目指すことをみんなに宣言し、国立でのライブがももクリ2013で思いもかけず発表された。2014年3月15-16日、夢の舞台に共にいられた。そして、最後の5人のメッセージ、夏菜子の言葉(ナタリー記事)。

「笑顔を届けることにゴールはない」。「笑顔を届けるという部分で、天下を取りたい」。「もう悪い大人たちは、私たちの前に壁をつくってくれないんだなあ」。あの瞬間に立ち会えた。それだけでもう何も言うことはないライブだった。

というより、あれ以上の言葉を紡ぎ出すことは自分には出来ない。さらに、その場にいられたことの多幸感が過ぎて、細かいことを覚えていない^^;。それでもやはり自分の言葉で残しておきたいと思った。

ももクロ国立聖火台Back

国立 聖火台を背にするももクロ natalie

あの空でつながる気持ち

「国立川」の頃はまだももクロに出会っていない。国立川のことは直接知らない。けれど国立を目指す気持ちはももクロと共にあった。「ももクロの夢はモノノフの夢」だ。

「国立で会いましょう!」。モノノフ全国大会。国立が発表されてから、どうしてもその場行きたいと願い、それが叶った。その後のイベント(自分はLVだが)や、twitterなどいろいろな形で繋がっている他のモノノフさんと、「じゃあ、国立で」と挨拶を交わした。国立で一堂に会することも、楽しみの一つだった。

あの時、日本中の空でももクロが好きな人たちの気持ちが繋がっているという感覚があった。ももクロを好きなありとあらゆる人がありとあらゆる方法で、国立に集まった。会場、LV、ラジオ、家。日本中の空で気持ちが繋がっている。そんな気持ちになっていた。「共同幻想」がまた「現実」になった。

国立までの自分の道のり。

2013春の一大事 西武ドーム大会 〜星を継ぐもも Peace for the Stars。「モノノフさんたちの星になれたら」「みんなのスターにもなりたい」という言葉に、僕は“もの悲しさ”を感じていた。より高みを目指し一流の力をつけなければならないことは分かっている。それでも一抹の寂しさが残った。手の届かないものになってしまうのか。”ともにいる”という感覚を持てる ももクロはどう変わっていくのだろうと。遠くに行ってしまう気がしていた。

けれど夏菜子は最後の挨拶で、「皆さんは私たちの仲間なんです。 これからも一緒に、いろんな夢を叶えていきましょう」と言った。この言葉にやけに“安心”したことを覚えている。(その時の観覧記)。

2013夏のバカ騒ぎ 日産スタジアム大会で、夏菜子は川上マネージャーから聖火を受け取った。「あなたに『ももクロの未来を託しました』ということです」と川上マネージャーは言っている(公式パンフ)。

そして国立競技場でのライブ発表で歓喜の涙に包まれたももクリ2013。「笑顔の一兆返しだ!」と始まったライブは、「みんなでありえないところまで進んでみませんか!」と、笑顔が輪廻のように繋がって大きくなることを感じる空間だった。(その時の自分の感想:「笑顔の輪廻でありえない世界へ」)。

あの場に立ち会えたこと。

❖「みんなに笑顔を届けることにゴールはない」

「笑顔を届けるという部分で天下をとりたい」と、何よりも大きな目標を掲げた。ゴールのない目標。その瞬間に立ち会えた幸せな時間。大袈裟に聞こえるだろうが、彼女たちと同時代で良かったと感じた。

❖「もう悪い大人は、私たちの前に壁を作ってくれない」。自ら切り拓くことを決意した5人。

5人ともが「一緒に進もう」と伝えた。「目の前が真っ暗になってしまったときは、みんなのサイリウムを目当てに進んでいけたら」とまで。

夏菜子とともに精神的支柱であるれにちゃんが、「ももクロは絶対終わらない」と言った。「悪い大人」の力によってではなく、自分たちの力で、モノノフの力で、ともに「新しい道を切り開く冒険」 (玉井詩織ブログ) を進もうと宣言した。

力強いライブと、いつもと変わらぬ彼女たち

❖軌跡を振り返りつつ、力強いライブ

国立初日は、モノノフがサイリウムで彼女たちに聖火を届けるというスタート。ソラトニワ銀座で、夏菜子の発案だと知った。 まさにこれまでを振り返るライブ。正面から見るステージに極楽門を思い出し、中央の円形ステージは横アリ2日目のようでもあり。そして国立川で花道をまわった“台車”。シングル発売順ということだけでなく、ステージさえも集大成なのかという思いを重ねて見ていた。

❖普段通りに見える彼女たちのパフォーマンスが嬉しかった。

大きな会場でありながら、MCではいつものように仲良くワチャワチャとはしゃいでいる。なによりそれが良かった。

❖詩織推しとして。

初日をLVで見ていて、しおりんが目を潤ませる場面を何度か見た。嵐のDVDを持ってきたことで国立がももクロの夢になった。あのブログ更新間隔の長い(そこが良いのだ^^) しおりんが、国立後は長い言葉をブログに綴っていた。その想いはひとしおなんだろう。

詩織:そもそも、私が嵐さんのDVDを現場に持ってきたことが、みんなで国立競技場の夢を見るようになったきっかけだったんですよ。⋯発表を聞いたとき、最初に思い出したのは、嵐さんのDVDを持っていったときのことでしたね。 川上:今になって思えば、玉さんが3年前に、嵐さんのライブDVDを持ってこなかったら、国立競技場はありえなかった。(国立パンフより)

❖「ありえない世界」=新しい目標は何だろうと考えて国立に参戦した。

国立では初日に日産スタジアム2Days を発表した。初日はLV鑑賞だったが、何かサプライズをするなら2日目だと思っていたので驚いた。それと同時に、自分の感覚でも14万人のライブ発表は「サプライズ」ではなかった。国立発表時には南国ピーナッツの歌でコケることも忘れ、ただ泣き続けていた5人。今回の発表時のメンバーの様子を見ても、驚きは少ないように感じた。日産 2Days は凄いことだけれど、「ありえない世界」は、観客動員数の倍々ゲームではないと感じていたから。

夏菜子:あの日はその(松崎しげるさんがなかなか会場を発表しない)パターンにも乗れなくて、私と玉井、高城は転ばないで、そのままVTR見てましたから(苦笑)。  (国立競技場ライブパンフ)

❖遠くに小さく見えるからこそ。

2日目は幸運にも、国立競技場にいることができた。座席の関係でビジョンも斜めでステージも遠かった。近くで見たいし表情もしっかり見たかった。けれど、会場の隅々で踊る彼女たち。なにより最後に聖火台で話す彼女たちをみて、“あんなに小さいんだ”と感じた。それが逆に「嬉しかった」。小さくても、こんなに遠くまで届けようとしているのだと感じられたから。

遠くから見ても動きが綺麗だった。

あとでナタリー記事のZ伝説の写真を見て驚いた。ポーズだけでなく最っ高の表情だ。

国立 Z伝説の笑顔

国立 Z伝説の笑顔 natalie

 

実際、スタッフも、実力をそのまま見せること演出をしたと言っている。

佐々木敦規(演出家): “こいつら出来るのよ” っていうライブを見せる事を心がけた。だからゲストも、多くなかったし、演出も、彼女達のパフォーマンスの中に演出を入れるというか。 佐々木:彼女たちに基礎が整い、通常だったらホールでやるものをあえて国立で見せるっていうところがももクロの凄いところ。 清野茂樹(アナウンサー):(プロレス技で例えると)飛べるんだけれど、飛び技はあえて今回は使わずに、みたいな。 川上アキラ(マネージャー):佐々木さんはストロングスタイル(実力主義を前面に出したスタイル)をちゃんとってのがあるんですけど、僕が飛びたがるというところがありまして(笑)。 2014年3月19日 ソラトニワ銀座

❖モノノフはももクロの「舞台」。

おこがましいかもしれないけど、今回改めて、モノノフはももクロと共にあり、"ステージ・舞台"でさえあると思えた。カラフルな衣装、ペンライト、コールや声援。それらすべてが「ももクロ」だと感じた。“ともにある”と。

特に、2日目の「灰とダイヤモンド」が始まる前、暗転しペンライトだけになった会場。しっとりと歌が始まり、白いバルーンが空を埋める。この空間と景色をともに作った。そんなことを感じた瞬間だった。

国立のダイヤモンド

国立の“ダイヤモンド” (ももりこぶたZ Twitter)

❖「世界のももクロNo.1」。想いを伝えて返したい。

全曲を終え、聖火台に向かって花道を一人ひとり歩いて行くメンバー。サイリウムの色がその歩にあわせて替わっていく。「あの空へ向かって」のインストは、ジェットコースターに乗る直前 Cメロに切り替わった。作為的だと言いたいわけじゃない。

笑顔の輪廻を作り出すのがモノノフなのだから、僕らの気持ちをここで届けなくてどうすると思い、「世界のももクロ No.1」を叫び続けた。思いを伝える瞬間をもらったから。

親しみを感じながら憧れでもある。

❖ともにすすむ。

「一緒にたくさんの夢を見て、歩調を合わせながら、新しい道を切り開く冒険の旅を人生をかけて続けていく」。進む道を照らすサイリウムを手に、ともにすすむ。

圧倒的な存在感とオーラを放って光り輝く存在でいてくれることも素敵だ。けれど、身近な存在、同じ地平にいると感じたいという思いもある。今回、5人が5人ともその思いを語ってくれたことが嬉しかった。

❖迷いがあるからこそ覚悟する夏菜

夏菜子は、気持ちが揺れていること、悩んでいることを感じさせつつも、皆の前では極力それは見せないようにしていると、僕は思っている。だからといって悲壮感はない。

感情を大事にしている姿をみて、人としての信頼と尊敬を感じ、笑顔でいることでこちらも素直に笑顔になり、覚悟も伝わってくる。悩んだからこその覚悟が見える。

川上マネージャーからの夏菜子へのメッセージにはこうある。「真面目なので、いつも迷っていると思いますが、これからも人間くさく百田夏菜子らし、走り続けていってほしいです」(国立パンフ)、と。

だからこそ、夏菜子の姿、彼女たち5人の姿に胸をうたれる。

❖“変わるもの”と“変わらないもの” の 共存

夏菜子は「変わり続けたいって思えば思うほど、変わらないものが見えてくる」といい、「根っこは変わらない」とも言う (「音楽と人」2013年5月号と、2013西武ドームでの挨拶)。

ももクロは、「たった一つの自分」を追い求めるわけでもなく、「本当の自分探し」をするわけでもなく、変わらない部分と変わる部分をひっくるめて共存させている。

❖「らしく、ぶらず」。親しみとあこがれの共存

笑福亭鶴瓶は、「(ももクロは)すれてないねん。(すれた感じが) 5人一切ない!」という。

斜に構えた感じもなく、素のままで、仲良くふざけあっている。かっこつけるのではなく、様々な感情をストレートに届けるからこそ、ももクロは楽しい。そして今回のシングルでは「泣いてもいいんだよ」と。

そして、ついていくのが大変なほどの変化を見せる。「すごいスピードで変化進化している部分と変わらない部分の両方が共存してるから、ファンも尊敬しつつ親しみを持ち続けられる」と見事にまとめたフォロアーさんの言葉。まさにその通りだと思う。

「らしく、ぶらず」。

❖親しみと憧れの同居。「うち」と「そと」の共存

自分の身内、娘や親戚のように感じる人も多いももクロ

僕はそれを超えて、自分の「内側」だとさえ感じている。まだうまくいえないのだけれど。

一方で、自分には無いものを外に求める「あこがれ」の気持ちもある。

自分の「内」でもありながら、あこがれの対象。ももクロは「内」と「外」が同居して、つながっている。

だから、言葉にならない魅力があるのだろうか。自分が何者かを説明しきれないように。

❖内と外がつながって、自分に戻る。

身内を超えて「内=自分自身」になっている。ももクロは「内」だからこそ、彼女たちを応援し笑顔を届けることは、自分にも返ってくる。輪廻転生のように。

ももクロを応援しているようで、それは自分を変えようとしていることなのかもしれない。それがこのつながりの強さを生むんじゃないだろうか。

「奇跡じゃなくて自分の中から みちびく 未知の力」「私は 私の 化身になりたい」というGOUNNの歌詞が浮かんでくる。

共同幻想」を増幅する「すばらしい装置」

今まで書いてきたように、“どうしてこんなに、ももクロに「つながり」を感じるのだろう?”っていつも考えている。

❖「一体感」に感情が動く。

ももクロの夢はモノノフの夢。国立の夢は叶った。日本中の空で気持ちがつながった気がしていた。

僕は、overtureのコール、サイリウムを振って歌の中でコール、「あの空へ向かって」での「世界のももクロNo.1」。この時間が何より好きだ。音楽フェスでアンセムを一緒に歌うときの感覚。

自分はもう、overture を聞いてコールするだけで、気持ちの高ぶりとともに、涙腺が緩むようになってしまっている。「世界のももクロNo.1」に至っては、泣きながら叫んでいる。つながっていると感じられるから。

❖一体感を持ちながら多様。ばらばら。

けれど、ももクロの魅力はそれだけじゃない。内輪の一体感は、中に入ってしまえばとても楽しいものだ。一体感だけなら、知らない人からはマスゲームや宗教に見えるかも知れない。

けれどももクロには、それだけではないものがある。それは何だろうって考えている。なかなか答えは出ないのだけれど。

川上マネージャーは、「(ももクロの)実体はどこにあるのだろう」と思わせたいと言っている(日経エンタテインメント2013年3月号)。

夏菜子は国立の最後に言った。「たーくさん笑って、バカなことをやって、ちいちゃい会場でライブをしたり、弾丸ライブをしたり、ももクノみたいなちょっとふざけたイベントをやったり、こういう大きな会場でたくさんの方に観てもらったり」と、常に姿を変える。

ももクロは真逆なモノ、異質なモノを内部に共存させ、変わり続けていくからこそ、たった一つの価値観で固定化されてしまうことはないと感じているのかもしれない。

だから、一体感がありながらも、それぞれのモノノフの「内」に“自分だけのももクロ”がある。

❖「共同幻想」の担い手。想いをつなぐ「ファンタジー・幻想」。

笑顔を届けるゴールのない冒険の始まり。ももクロが自分の言葉で、その道をモノノフと共に進もうと伝えた。モノノフとしてはとても大きな一体感に包まれた。

そこで“つながれた”という感覚は、「幻想」なのかもしれない。「ファンタジー」かもしれない。けれどその「幻想」は、自分の心の中では「現実」だ。そしてそれは、ももクロとモノノフを現実世界でつなぐ。モノノフどうしをつなぐ。

❖ファンタジー・幻想を更新し続ける。

自分以外の人の「想い」は、突き詰めれば自分勝手な思い込みであり「幻想」だろう。言葉は想いの全てを伝えられないし、言葉以外のコミュニケーションを含めても、その人の「本当の姿」になど、たどりつけないのかも知れない。もしかすると自分の想いさえも「本当のこと」はつかめない。

相手の想いも自分の想いも、「本当のこと」は分からないかもしれない。だから、今その時の想い(=「幻想」)を否定せずに認めた上で、「更新」し続けたい。「本当のこと」にはなかなかたどり着けないからこそ、一つの見方に決めてしまわずに、新しい「幻想」に書き換え続けたい。

ももクロが一体感を持ちながら、多様であり続けられるのは、ファンタジー・幻想を絶えず更新するからじゃないだろうか。そこが何より“人間くさい”。

❖人とつながるとき、「幻想」は「現実」になる。

また大げさな言い方だけど、ももクロに出会って、あらためてきちんと「幻想」と付き合おうと思うようになった。

人とつながるときに、「幻想」は力になる。一緒の「幻想」を元にして実際に人とつながることができる。そしてまた新しい「幻想」が生まれる。逆に「幻想」や「思い込み」が人とのつながりを邪魔することもある。だからこそ、その人のイメージやその人との間にある「幻想」を固定してしまわずに、更新していこう。

たった一つにとどまらず、変わっていくことを変わらずに続けたい。

ももクロは、そんな気持ちを確信と覚悟に変えてくれる。人とつながることの楽しさと力強さを、自分の力として環流させていく。輪廻させていこうと思う。

何言ってるんだって話しかもしれない。けど、こう思えるものを持っているってとっても楽しいことだと思うんだ。

❖想いの“交感”と増幅。「共同幻想」を増幅更新する「素晴らしい装置」

「 <想い>は伝わる、すばらしい装置」。「共同幻想」を増幅し更新しお互いに変わり続ける。それがももクロなんだと感じた「国立競技場」だった。

 

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資料

「国立川」と「国立」についての他の方の記事を自分用にメモ。

国立競技場。座標:35.678067,139.714894

ももクロぺでぃあ私家版 国立川:「国立川」の解説。JR立川駅北口駅前大通りに面したショッピングセンター「フロム中武」。

ももクロ@立川フロム中武2/19 ー立川が国立競技場になった日 - パノラマロジック:嵐ファンの目線で「国立川」ライブを語る記事。嵐が国立で言ったセリフ、今回ももクロメンバーが言ったセリフ。

ももクロ国立川について-ももクロちゃんはじめました。:「国立川」観覧記事を紹介。

2011年2月19日の「国立川」のももクロメンバーのブログ

そして「国立」のももクロメンバーのブログ

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