このやっかいな、

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日曜×芸人:“イジられる”若林の変遷。若林が愛される理由。

「イジられる」若林のロードムービーでもあった「日曜×芸人」が終わった。この番組が始まって3ヶ月が経った頃、彼は自分はイジられる人だと気付いた。僕はイジられる若林に「困惑」を見ていたのだが、それは自分の投影であったのかもしれない。

 

日曜×芸人」の3人の組合せが新鮮で好きだった。無尽蔵のエネルギーで暴走するザキヤマ。それに乗っかって好き勝手やる、普段あまり見られないバカリズム。そして、進行を邪魔されイジられる若林。 2年間続いた番組は2014年3月30日、最終回を迎えた。

結局、徹底的にイジられた最終回

3月23、30日の最終回企画。MC 3人は温泉へ。3人への慰労と企画を振り返る流れ。慰労といいつつ、若林は最後までイジられていた。

半沢直樹の「倍返し」をふられ「今時期一番きつい」と言いつつも、表情を作って「やられたらやり返す⋯」と始める若林。そのとたん、バカリズムが「結構ガチじゃん」とちゃちゃをいれるのだが、それでも若林はやりきり、「俺の助走の最中に結構ガチじゃんって言うのヤメて。助走やめようかと思った」と笑う。

ザキヤマバカリズムは若林の母親が普段作らないような弁当を作ってしまったことを引き合いに出して、「テレビに映るときに自分を大きく見せちゃう」家系だとまでいう。さすがにこれには若林も「一族で行きますよ」と反撃。

最後には二人からどじょうすくいを求められ、その上「若林君から言い出した形にしてくれないかな」と頼まれる。「そうじゃないといじめてるように映っちゃうから。そうしないと“若様ファンから(クレームが)来るから(笑)」とバカリズム「うちのばあちゃん言ってたもん、“あんたイジメられてるね”って(笑)」と返すが、それでもどじょうすくいの流れは止まらない。

気持ちを固めて「どじょうすくい、やらしてください!。俺にどじょうすくいやらせてくださいよ〜」と胆の座った声色で言い出すが、ザキヤマバカリズムは、振ったくせに上から押さえつけてやらせない。若林は「気持ち固めたんですよ」と言って屏風裏にスタンバイし、最終的には音楽も手拍子もなく、どじょうすくいを踊って番組は締めくくられた。

日曜×芸人終わりだよ 

 

どじょうすくいをやりきった若林 

楽しそうな表情が印象的だ。けれど⋯。

「決意したんだな」「やらないと終わらないじゃん」

気持ちを固めてどじょうすくいを踊るのだけれど、決意をするまでの葛藤も見え隠れしていた。 バカリズムには「今まで守っていたところを譲ろうと決めた」と言われるが、「やらないと終わらないから」と、完全に受け入れてはいないような口ぶり。芸風を「全カスタムして」「落として」どじょうすくいをやったと。

バカリズム:(若林は) 俺の中ではどじょうすくいする人じゃない。どっかで自分の中で決めたんだな、やっていこうって。これからもこういうフリは絶対来るから、この番組に関してはこういうのやろうって決意した感じはあった。一人だけ裸になったり、この番組で汚れることを受け入れるようになった。

若林:言わしてもらうけど、やらないと終わらないじゃん(笑)

バカリズム:だから決めたんだなと。この番組に関しては若林が今まで守っていたところを譲ろうと

若林:(芸風を) 全カスタムしてどじょうすくいやってるんですよ。すごい落としてますよ(笑)

番組放送後のYoutube配信 『最後にぶっちゃけトークでポジティブ!』#50-2

「イジられる」ことには、それなりの思いがあることを2014年4月5日のオールナイトニッポン(ANN)で話していた。

笑っていいともでは、イジられても対応できなかった

ANNでは、「笑っていいとも!」が最終回を迎えたことをうけ、「いいとも」レギュラー時のことを振り返っている。

2009年10月にオードリーは「笑っていいとも!」のレギュラーになる。

「いいとも」の放送終了後、若林がイジられることが続いていた。「春日がいじられて、それに対してツッコんでいかないと、オードリーとして出ている意味がない」と焦っていた。若林が春日のキャラクターをイジる時期であり、いじられながら「これはやばいぞ」と思っていた。

「いいとも」のコーナー司会をするが、ままならない若林。イジられても、「うまく」進行することに意識が向いていた。

この時期若林は「『いいとも』でどうすればいいか、悩んでた」 と語っている。

若林:タモさんも、イジってくれてたんだよね。『お前の言葉は覇気がないから、ドライブしていかないんだよ』って言ってくれてたから。「そしたら、みなさん合わせてくれたら良いでしょ!みなさん、ベテランなんだから!」とか言えば良いものを、「それはそれとしてね…続いてはですね」みたいな(笑)。

春日:勿体ない。

若林:なにやってんだよ!って思うよね(笑)。

〜2014年4月5日 オードリーのオールナイトニッポン (以下、断りのない引用はこれに同じ)

「イジられらばいいのよ」

その後も、イジられることについての話は続く。 2012年夏頃。「日曜×芸人」が始まって3ヶ月ほど経った時期に、若林は自分は「イジられる人」だと気付いた。

若林:日曜×芸人の1クール終わるくらいで、俺はイジられる人なんだと思ったんだよね。それまではあまりそういう意識なかったんだよなあ。ザキヤマさんと升野さんにイジってもらって3ヶ月位したときに気付いたんだよね。これはフリなんだなって

「いいとも」レギュラー時には「それはそれとしてね…続いてはですね」と進行を優先させていた。しかし2014年4月5日、「笑っていいともグランドフィナーレ」後に行われた「タモリ倶楽部」の収録では、タモリに進行を“遮られ”イジられても、「ちょっと聞いてくださいよ」と、ツッコんで返している。

若林:今日もタモリ倶楽部で絡めてさあ。俺が調子こいてるときに、(タモリさんが)突然「なんだお前それ」っていうときあるじゃん。昔だったらやばいって思ってたの。でも今はさ、「ちょっと聞いてくださいよ」ってなるもんね(笑)。

日曜×芸人」の終了、「笑っていいとも!」の終了、「タモリ倶楽部」の収録を振り返って、“イジられること”を受け入れ、“できないことは出来ないと言う”ことを受け入れている。

若林:終わって今、気づいてる。イジられればいいのよ。イジられて、ムリだったら『ムリです』って言えばいいし。

今となっては「いいとも」で出来なかったことを、「凄い悔しい」「もったいない」と言う。その後も、「今考えたら、凄い機会・チャンス。今考えれば存分にイジられていけば良かったのに」と何度か口にしている。

「イジられて育ってこなかった

イジられてもうまく返せないことを、「あんまりイジられて育って来なかったのがよくなかったのかもしれないよね」と話している。 もともと若林は、盛り上げるタイプの人たちを“はす”から見ているタイプだった。そして若林から見て、「いいとも」は盛り上げるタイプの人たちが集まる場所。

若林:俺、学校の文化祭でステージに上がって、ガンガンに盛り上げてるAとかB(当時の同級生)を俺らは校舎のベランダから見て「あれはちょっと違うよな」とか言ってたよな(笑)。そんなタイプだったじゃん、俺ら。でも『いいとも』って、あそこで盛り上げてる人たちの場だと思うんだよね。空気的に。

若林:「いいとも」って、お客さんもそうだけど、超盛り上がってんじゃん。スタッフさんとか、打ち上げも学祭の打ち上げみたいだし。やっぱり、俺は超隅っこの超後ろにいる人だから

自分に鋭角にツッコむ若林

日曜×芸人の最終回、バカリズムに「ちまたでは斜めからの角度で行く感じだけれども」と言われている若林だが、自分のそっくりさんと打ち上げに参加した際に、そういう自分を客観的に見つめている。「世の中をこまっしゃくれて」見たり、相手が何の気なしに言ったことに「それって何?それってどういうつもりで言ってるの?」と鋭角に攻めていくところが自分にはあると客観視した若林。

若林:あそこまでそっくりさんを見ると、(自分は) 腹に何か据えかねたものを持ってるというか、こまっしゃくれた感じで世の中を見てる、みたいなのがあるんだよね、だから、何気なく『あれ、あぁだよね』って喋ったことに、『え?何っすか、それ?』って言ってきそうな感じっていうのを、初めて客観的に感じられた(笑)。

中心にいるよりは、どちらかといえば中心で盛り上がる人をイジる側にいた若林。

けれどそれだけではなくて、若林はその時々の自分を冷静に見つめ、なんなら“はす”から「鋭角」に自分に対してもツッコんでしまう

「いいとも」という華やかな舞台の「中心」にいる自分への違和感を持っていたのかもしれない。

冷静に客観的に分析するタイプの人は、自分に対してもメタ視点でツッコむ。相手の言動にツッコんでいるのだから、それと似たことを自分がした場合、自分へのツッコみが発動し、硬いブーメランが自分の後頭部に突き刺さる。

「今のままでいい」

司会が出来る自分を見せたかった。盛り上がりの中心を遠く斜めから見ていた。イジられて育ってきてない。そんな自分が「中心」にいることの違和感。 「いいとも」レギュラー時は理想が高かったが、今となっては、「司会もできる自分」という理想をいったん置いて、「あの時の俺の」自分で勝負すれば良かったんだと振り返っている。

若林:凄い悔しいのはさあ。司会を何度か「いいとも」のコーナーでやらせてもらったことあるのよ。それで、あの当時、若林は何を天狗になってそう思ってたのか、「司会もできます」ってことを、お客さんにもタモリさんにも、スタッフさんにも知ってほしいってことで、物凄い手カンペを読んでたんだけどね(笑)。⋯ 若林:でも、そうじゃなくない?司会がままならず、タモさんとか草なぎさんにイジっていただいて、「いや、できてるじゃないですか!」ってやれば良いのに。あの時の俺のランクだったら。それなのに、何を偉そうに「さぁ!トップバッターはですね…」とかね(笑)。何を偉そうにね(笑)。

これは、2011年8月上演の「芸人交換日記」、作・演出の鈴木おさむに言われたことも大きく影響しているのだろう。

若林:芸人交換日記で言ってくれたのは、「いろんな事を考えてるから、素で出てくれればいいから」って(言われた)。「人間っていうのは元々いろんな事を考えてる、若林の今のままでいい」って言われたらすげえ楽になって。

こんな出会いと経験を経て、「無理ですって言えばいい」、「若林の今のままでいい」という気持ちを持つようになった。 それが「日曜×芸人」最終回の、「やらないと終わらないじゃん」「すごい落としてますよ」に集約されているのかもしれない。イジられて困る姿も見せている。「気持ちを固めたんですよ」と、葛藤の過程を無理に隠さず言葉に出す

自分の内面を旅する若林

若林がお笑いをやっていくベースにあるのはネガティブな部分だという。そしてその興味はそのまま番組やお笑いライブなどにも反映している。2010年、「潜在異色(せんざいいしょく)」というユニットライブをした時期、「僕がお笑いをやっていく上で踏み台にしてるのは、フラストレーションとか苛立ちとか自分のネガティブな部分」と話している。(2010年「Splash Vol.3」 )

2011年12月から放送されているCSの「おどおどオードリー」では、3回目から精神科医や心理カウンセラーを招いている。精神科医・名越康文を招き、若林は付箋だらけの彼の著作を手に質問をぶつけていく。

山里亮太との「たりないふたり」もうそうだが、若林はずっーと自分自身についての興味を強く持ち続け、自分の内面への旅そのものを見せてきた

自分の否定と肯定をそのままさらす

芸人は突き詰めれば自分の「欠落」を見せることが生業になる仕事なのだろう。そして、手の内を曝していると視聴者に思わせるのがテレビであり芸人だということもわかっている。ファンタジーの部分だ。

「山ちゃん、俺、ラジオから徐々にやってる最中だから言わないでよ。これ(毒を出さないと思われていること)は破らなきゃなとは常々思ってるんです」(2014/1/9 ナカイの窓 ゲストMCスペシャル」)と、敢えて手の内を曝すこともしている。

けれど、それ以上に若林は「思わず曝してしまっている」のではないかと感じさせる。

若林は、「目の奥が笑ってない」「深い闇がある」と言われながらも、結局そういった自分をそのまま見せている。内面が覆い隠されているようでありながら、それをひっくるめて手の内がばれてしまっていると感じさせる。

そうやって「若林正恭」という人が見えてくるように感じる。若林が一部のファンから「若様」と言われるほどにアイドル視されるのは、「欠落を抱えながら成長していく」さまを見せているように映るからではないだろうか。

自分の内面を見つめることが、どこかでそのまま若林の芸に繋がる。それ自体がイジられてしまう。内面や奥底は見えないのかもしれないけれど、結局その葛藤が見えているような気にさせてくれる

日曜×芸人」で号泣した姿が放映された後、若林は「俺の好感度だけ上がって欲しかったんですけどね」と、泣いた事への計算も持っていたと話している。一方で何で泣いたか分からないとも言っている。

若林:(泣いたことで) 俺の好感度だけ上がって欲しかったんですけどね

バカリズム:好感度めっちゃ上がってましたよ。

若林:それは俺も狙ってたところなんでありがたいです(笑)。⋯ 泣いた時は複雑にいくつかの感情が絡まってて訳分かんなかった。(泣いた理由の一つは) この企画どうしたらいいんだろうと思ってた、どうなったらわーってなるんだろうって思ってた。

バカリズムオールナイトニッポンGOLD 2013年10月17日 ゲスト:オードリー

視聴者から見るといい意味でのアマチュアイズム、非予定調和感を感じさせる。「手慣れていない」と感じる「隙」を与え、それが新鮮に映る。もっと言うと、どこかで視聴者が自分と重ね合わせるとこができる。

自分が若林がこの番組でイジられてモヤモヤしていたのは、若林に自分を投影していたからなのかもしれない。若林の思い通りに事が進まないことを、自分に置き換えてみていたからモヤモヤしていたのかも知れない。

「自分の意見に反して“ほんとそうですよね”って相槌うつのが他の人より疲れる(Splash)」と、社会的な関わりの中で「ペルソナ(仮面)」をかぶることに抵抗感を持っている。それが葛藤が見えるように感じるところだろうか。おそらく、それの最たるものは「社会人大学人見知り学部 卒業見込 」に書かれていいることだろう。

「隙」があり「欠落」を感じさせ、視聴者にとってどこか自分と重なると感じ、自分の延長線上にいるかと思わせる若林。

だからこそ、「若林正恭」という人が愛されているのだろう。

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社会人大学人見知り学部 卒業見込 (ダ・ヴィンチブックス)
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若林正恭