ぎゅーって抱きしめて、ふたつを合わせる『アナと雪の女王』。
『アナと雪の女王(2014)』(Frozen, 2013) の自己流解釈とその理由。この映画はとても多層的に作り込まれているので、人によって見え方が違うし、どれが間違いというのでもなくどれも正しいものだろう。エルサのドレスや氷の城のように、この映画の輝きや響き方は人によってさまざまだ。「花咲く氷の結晶のように」 (frozen fractals, crystalized ice) 、その光はあちらこちらへと拡がってその人に届く。
英語のセリフや歌詞を追っていくと、キーとなる言葉が何度も登場している。何度も見返したいと思える作品。
自分なりのキーワードは、
- 「ふたつ」と「ひとつ」。
- 「ふたつあわせるともっといい」。相棒になる。
- 自分を「ぎゅーって抱きしめる」。
物語の内容と核心に触れネタバレしています。
(※ ここは、wordpress このやっかいな、 | 感情との付き合い。 のはてな場所です。こちらに他の記事もありますので、もし見てもいいよという方はおいで下さい。)
Let it Go への違和感からはじまった物語への没入。
最初にこの映画を見たとき、エルサが物語序盤で決意をこめて、けれどどこか「捨て鉢」になって歌う歌が、ここまで世の中に受け止められていることが少し不思議だった。英語と日本語の歌詞の違いが気になり、日本語の歌詞に違和感を持った。
〜Turn away and slam the door. The cold never botherd me anyway.
この違和感には、このtweetが端的に答えてくれている。
Let it Go 訳詞。「日本ではこのほうがウケるだろうとメディアが思う女の子っぽさ」に修正し過ぎかな。英詞は「誰が何言おうが知ったこっちゃない」「嵐よ吹き荒れろ」「ドアを叩き閉め」など。最後はニヤリと笑って「どのみち、私は寒さを感じないからね」ポイントは省略された「どのみち」
— 堂本かおる (@nybct) May 24, 2014
ちなみに、ディズニー公式のLet ig Go 直訳はこちらから確認できる。日本語版の歌詞とはかなり違う。
映像や文化に合わせるために、すくい取れなかったもの、あえてすくい取らなかったものあるのだろう。
『アナと雪の女王』特別映像:「Let It Go」/イディナ・メンゼル - YouTube
『アナと雪の女王』特別映像:「Let It Go」/イディナ・メンゼル - YouTube
※英語の意味を考えているときにこのサイトを参考にさせて頂いた。〜Let it Go - Idina Menzel 歌詞の和訳とちょっとした解説 | 洋楽カフェ、"Let it go"と「ありのまま」の違い。
ここから先は物語の核心に触れている。
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エルサとは?。真実の愛とは?
自分の解釈を先に述べてしまうと、エルサとアナは心のふたつの側面。
言い方を変えれば、「アナの凍り付いた心が“エルサ”」。
そして、“真実の愛;True love”とは、「自分を愛する気持ち・自分を大事にする気持ち」。
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最近、中森明夫氏がエルサとアナは同一人物の別人格という意見を述べた(参考1 togetter、参考2 ラジオ文字起こし )。けど、この考え方自体はさほど突飛なモノではない。どう書いたって後出しジャンケンにしか聞こえないだろうけど^^;。
この発想は、“トラウマティックな体験(心理的な外傷体験)をした人が、記憶を無意識のレベルに閉じ込めてしまい、感情を抑圧する”という文脈において、言い方は変だけれど「ポピュラー」な発想だ。トラウマによって過去を「忘れて」しまったり、いわゆる「多重人格状態」になるという展開は映画やドラマにたびたび登場する。
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「エルサ」とは、「アナの内面にわきあがる自由で率直な感情や衝動」である。あまりにも強く、制御不能であるために、本人も受け入れがたい。その感情や衝動をあまりにも強く抑え込んでしまい、決して表には出てこない。その感情があったことさえ覚えていない。後の方で、そういう生き方しか出来なかった人の例をあげている。
映画自体は、トラウマティックなものが具体的に描かれているわけではない。でも描いていないからこそ、見た人が様々な角度から自分に引きつけることが出来る。自分らしさを押さえつけて、世の中に合わせて生きてきた人を解放する映画になる。姉妹の物語にもなる。
僕自身の見方としては、「抑圧していた“やっかいな”自分の感情」に気付いて、認めて、折り合いをつけて「ひとつ」になる物語だ。
そしてこのあと、どうしてこう解釈できるかという理由を長々と書いていく。
I. エルサとは? では、「アナの凍り付いた心が“エルサ”」だと思える理由を挙げていく。
II. 真実の愛とは? は、真実の愛=「自分を愛する気持ち・自分を大事にする気持ち」だということを説明する。
III. よくもありわるくもある では、キーワードとなるセリフをつないで、この映画のテーマを考えてみる。
I. 「エルサ」とは?
なぜ、「アナの凍り付いた心がエルサ」だという見方ができるかというポイントをあげていく。
まず、この2人のキャラクター。
- ドアで隔たれるアナとエルサ。白い髪の理由を知らないアナ。 [A]
- クリストフとスヴェン。クリストフが喋る“スヴェン”。 [B]
アナは、なぜエルサと遊べないか、なぜ自分の髪の毛が白いかを覚えていない。そしてスヴェンの言葉も話すクリストフという存在。
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次に。物語の構造として、相棒を求めるキャラクターと、対立する「ふたつ」がいくつも登場する。
- 「ふたつ」と「ひとつ」」の構図。 [C]
さらに、オラフという存在がいる。
- 「ふたつ」を「合わせる」身体がバラバラのオラフ。[D]
そして、この映画はよくよく見てみると、英語のセリフ、歌詞に手がかりとなるキーワードが形を変えて何度も登場している。
- 英語のセリフや歌詞にあるちりばめられた物語のキーワード [※]
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では、それぞれの点を説明してみる。[※]の英語のセリフ・歌詞については、その都度触れていく。
ドアで隔たれるアナとエルサ。白い髪の理由を知らないアナ。[A]
アナはエルサのいるドアをノックし続ける。「雪だるま作ろう、一緒に遊ぼう」と呼び続けるが、エルサは部屋から出てこない。そして、力を隠し部屋に閉じ込めるように命じた両親は死んでしまう。
アナは、エルサが自分を遠ざけている理由を知らない。自分の髪に白いところがある理由も知らない。生まれつきだと思っている。
つまり、アナの白い髪は「凍り付いてしまった心」を示している。ドアの向こうに閉じ込めてしまい、底に触れることは出来ない。ドアの向こうのエルサとアナの白い髪の毛は、「心の奥底に閉じ込めた過去・感情」の象徴である。
過去に何かあったという痕跡に気付く“しるし”はあるけれ、それがなにか・どうしてなのかは分からない。
ドアの向こうに閉じこもったのはエルサではなくて、アナ自身が閉じ込めて遠ざけてしまった過去の感情。おそらくそうでなければ生きていけなかったから、自分を守るためにフリーズドライしたのかもしれない。それを描いてはいないけれど。
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ここで、心を閉ざすことで自分を守っていた人の話を例としてあげておく。
僕はむかし、「生きづらさ」を抱えている人〜親や世の中とうまくいかない人(主に青年期から成人の女性)〜の話しを聞く機会があった。
かつて出会ったAさんという20代前半の女性は、とてもかわいらしく笑う人だったのだけれど、「周りの人と話すときは絶えず笑っていなきゃいけないと思うから、疲れるんだよね」と言っていた。
Aさんは学校に通っている頃から、周囲とうまくやれずに苦労していた。Aさんが自分のその時々の感情をそのまま出してしまうと周りと衝突や軋轢を生んでしまうので、何時の頃からか「笑顔の仮面」を常に身につけるようになった。自分らしさと世間との折り合いのつけ方がうまくいかずにしんどそうだった。なにより、悲しみや不安、怒りなどの強い感情が渦巻くので、彼女自身がその感情に振り回されて疲れ果ててしまっていた。だからできるだけ「感じないように」して、「笑顔を付けて」生きていた。
周囲とはあまり関わらないように親元を離れて一人暮らしをするのだけれど、自分をもてあましてしまい、自分の生活さえままならなくなってしまう。生きていくために仕事をするのだけれど、たえず笑顔でいるなんて大変なことだから、やっぱり時々つらくなって感情が“爆発”してしまい、結局周りとうまくいかなくて、入院したりしていた。
そうなると、「やっぱりうまくいかなかった。感情を抑えて、笑顔の仮面をつけていないとだめなんだ」、と前よりも強く思うようになってしまっていた。
そうやって自分の感情に気付かないフリをして過ごしていくと、Aさんの感情は本当に動かなくなり、まさに「凍って」いった。負のスパイラルから抜け出すのにはかなり時間がかかった。
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話をもどす。ドアをノックし続けるアナは、ずっと自分の無意識にあるものに触れたかった。けれど、どこかで隠さなければという気持ちも強かった。
それが示されているのが、アナとエルサが戴冠式で交互に歌う場面。アナは「自由に暮らせるの 生まれてはじめて」と心躍っているけれど、エルサは「ひとりでいたいのに 隠し通すのよ」と歌う。「全てを変えよう」—「だめよ」と、葛藤するこころのように二人の歌は裏表で重なり合う。
アナが、エルサの手袋の片方取ってしまい、力の片鱗を世の中に見せてしまう。「エルサ」をこじ開けて表に出してはみたものの、コントロールできない力は周囲から怪物や悪魔のごとく扱われる。そしてエルサは一人で生きることを決意する。
クリストフとスヴェン。クリストフが語る“スヴェン”。[B]
—❖ひとりの中に複数の面があることを示すクリストフ
砕氷職人のクリストフと、トナカイのスヴェン。クリストフは“スヴェン”と話しているが、全てクリストフの一人語り。
クリストフと“スヴェン”というキャラクターは、別々の側面・特質・人格 が同時に人の心の中に存在していることを示している。
クリストフは、人との交流が苦手で、トナカイと暮らしている。「人間はろくでなし トナカイの方がマシ」と、人間嫌いの一面を見せるクリストフ。家族はトロール。
ろくでなしさ 人間は スヴェン どう思う?
"そう あいつら すぐ おれたちをなぐるんだ でも あんただけは違う"
人と交流せず、一人を選んでいるのは「自分は他の人間とは違う」からだと理由づけるクリストフ。
—❖自分と対話できるクリストフ。けれど未熟な「ひとつ」
「独り言」をしゃべり、語り合う友だちがいない。孤独ではある。
けど、ある面では、クリストフは内なる自分と対話できる。
狼を振り切り、その後もアナを助けるかどうかを迷う場面。クリストフは 「だれも助けたくはない」と言うけれど、「そしたら彼女は死んじゃうよ」と“スヴェン”が答えて、助けることを決める。
自分の中に“スヴェン”がいるクリストフは、問題に出くわしたときに、“スヴェン”と対話することで解決を導くことが出来る。自問自答することが出来る。
クリストフはスヴェンを「相棒(buddy)」と呼んでいる。自分自身と会話し、自分の中に「相棒」がいる。 他の人と繋がれていないけれど、自分とは繋がっているクリストフ。
他の人と繋がれないのは“未熟さ”でもあるけど、自分と「ひとつ」になっているのがクリストフだといえる。
アナはエルサと交われず、クリストフは他の人と交われない。そんなアナとクリストフが出会う。
—❖「どっちもスヴェンなんだ」。「ひとつ」でいると楽なこと。
オラフが、アナとクリストフ(スヴェン)に出会ったとき、こんな会話をしている。日本語はうろおぼえ。
オラフ: この変な顔してるのは? /And who's the funky-looking donkey over there?
アナ : スヴェン。/That's Sven.
オラフ: じゃあ、こっちのトナカイは? /Uh-huh. And who's the reindeer?
アナ : ⋯スヴェン。 /Sven.
オラフ: どっちもスヴェンなんだ。/Oh, the... Oh. Okay. That makes things easier for me.
Donkeyにはロバという意味と間抜けという意味がある。オラフが「あの変な顔の donkey は誰?」って言うもんだから、アナは最初トナカイのスヴェンの名前を教えるが、次に「じゃあ、あのトナカイは?」と言うので、またスヴェンと答えるしかなくなり、どっちも「スヴェン」になっちゃうコミカルな場面。
会話の流れとしては、「同じ名前なんだね!」だったり、「どっちもスヴェンなんだ」っていう意味が日本語としてはしっくりくる。
けど、直訳では「そいつは楽ちんだ」という意味。単純に受け取れば、「どっちも同じ名前だと、わかりやすい」程度の意味だろう。
けれどこれは、「クリストフ=スヴェン」ということを暗に示している場面なのではないかと感じた。
もっと言うと、「That makes things easier for me」 というのは、「人格が別れていないのは楽だよなあ。内なる自分と話が出来るって楽だよなあ」って意味を含んだセリフなんじゃないかと“勘ぐって”いる。
“アナとエルサは小さい頃からドアで隔てられ、対話できず分離していることがやっかいだよね”、と言いたいのかもしれない。
まあ、「人格が別れていないのは楽だ」という点は言いすぎか。英語の肌感覚もないのに、字面でこねくり回して考えすぎかとも思う。
けど、どっちも同じ名前になってしまったのは、「ひとつ」であることを示しているのだろう。
そして未熟なクリストフと“スヴェン”だから、人間の名前が付かずどっちも「スヴェン」になってしまったのかもしれない。
クリストフが初めてオラフに「クリストフ」と認められるのは、「家族」のトロールの元へ行ったときだ。それまでオラフにとってクリストフは、「スヴェン」だった。
—❖クリストフとスヴェンが「ふたつ」になる瞬間。
アナが真実の愛を求めてハンスの元にいった時、クリストフは“スヴェン”(クリストフの内にいる存在)の言いたいことがわからなくなる。トナカイのスヴェンはクリストフを背中に乗せようとするが、クリストフは一回拒否する。内なる“スヴェン”はアナを助けることに踏ん切りがつかず、トナカイのスヴェンは助けることを決めている。内なる自分の“スヴェン”と、トナカイのスヴェンが別々の主張を持っている。
けれど最終的に、クリストフがみずからアナを助けに走り出す。
内なる“スヴェン”はクリストフを投影しているので、迷いも多い。この場面は、クリストフが未熟な内なる“スヴェン”から独り立ちし、自分の人生を決める責任を背負った場面だと感じた。
それまでクリストフは、自分と対話していながら、“スヴェン”に決定を委ねていた。
氷の城に向かうアナを助けることを決めたとき、スヴェンに対して「時々本当にお前が嫌いになるんだ」 と言うクリストフ。自分と対話して納得しているようでもあるが、“スヴェン”はクリストフにとって「逃げ道」でもあった。自分の気持ちに嘘をついていたのかもしれない。
自分で決め、表現する(表に出す)ことから、どこか逃げていた。
例をあげれば、言葉のしゃべれない子どもやペットの口を借りて、「お父さん(お母さん)はひどいね〜」と、夫(妻)に自分の意見を伝える妻(夫)みたいなものだ。(自分で言うと角が立つので、それを避けるという効用は置いておく)。
自分からアナの元に駆け出す場面は、“スヴェン”に責任をもたせるのではなく、クリストフが自分自身で責任をもった瞬間を描いている。
クリストフが自分で決める責任を背負ったことで、内なる“スヴェン”とトナカイのスヴェンが「別々」になる。クリストフがちゃんと「ひとり」になることで、他の人たち・外の世界とつながることが出来るようになる。
それを受けてか、アナを助けに来たクリストフを見て、オラフは「 クリストフとスヴェンだ! 」と叫ぶ。別々の存在として認めたかのように。
「ふたつ」と「ひとつ」の構図。[C]
—❖“相棒 (Buddy) ”をもとめるキャラクター
対立していたり孤独でありながらも、ここに出てくるキャラクターは、「相棒」を求めている。
子どものアナが、エルサに雪だるま作ろうと誘う場面では「We used to be best buddies」と歌っている。昔、アナとエルサは最高の相棒(仲良し)だった。そしてまた仲良しになることを望んでいる。
クリストフに人間の友だちはいないけれど、スヴェンを「相棒 (Buddy) 」と呼ぶ。
Buddyという言葉はこの物語ではキーフレーズ。
登場人物たちは、対になるもう「ひとつ」=相棒をさがしている。
—❖「ふたつ」と「ひとつ」。
この物語に出てくる「ふたつ」のキャラクターどうし。アナ—エルサ。クリストフ—スヴェン。
アナ—エルサは、相手を認められず交わることができない「ふたつ」。それぞれが「同じ」であることに気付いていない。「ひとつ」になれない。
クリストフ—スヴェン。内なる“スヴェンはクリストフ。”「ふたつ」のようで「ひとつ」。クリストフにとっては、“スヴェン”とスヴェンが「別々」になっていない。世の中と繋がれない「ふたつ」。
どっちも何かがたりなくて、未熟ではある。
—❖対立するふたつの「価値」
そして、エルサとクリストフそれぞれの内面にも、ふたつの「価値」が対立している。最初は、交わることのない対立するふたつの価値(人生の意味、幸せ)。
エルサは、「ありのままで」自分らしくいるために孤独(雪の女王)を選んだ。「トナカイの方がずっといい」というクリストフは、人間の相棒を見つけられない。
エルサもクリストフも、
自分らしく自由に生きること VS 社会で人に合わせて生きていくこと
という「対立」の中で生きている。
それはオラフもそう。雪だるまのオラフは、冬にしか存在できない。けれど自分が溶けてしまう夏に憧れる。
冬 VS 夏
このように、物語のあちこちに、一見“真逆”で対立する「ふたつ」が存在する。
「ふたつ」を「合わせる」、身体がばらばらのオラフ [D]
そしてこの物語の中でオラフは、別々の「ふたつ」を「合わせる(togther)」キャラクターだ。
「ドアをノックすればいいんだよ」と、アナとエルサの仲を取り持つ。アナとクリストフの仲も取り持つ。
オラフは「二つあわせたらもっといい」と歌う。
暑い夏と 寒い冬 ; The hot and the cold are both so intense
二つ合わせたら もっといい ; Put 'em together, it just makes sense
オラフは「別々のものが合わさって」できていて、なにかあるとバラバラになってしまう。
そんなオラフが「ふたつ」をつなぐのが象徴的だ。
II. 真実の愛とは?
さて物語の核心だけれど、この映画における「真実の愛」とは何なのか。
今まで言ってきたように、「エルサ」とは、アナの「内面にわきあがる自由で率直な感情や衝動」だ。自由だけれど制御も出来ず手に負えないほどのエネルギーであるため、強い力で抑え込まれ、決して表には出てこなかった。Let it Goで「Conceal, Don't feel」〜隠して、感じないで〜と歌っているとおりだ。
エルサの力をそのまま表に出してしまっては「怪物」扱いされ、社会ではうまくいかない。かといってアナも、戴冠式の朝は頭がぼさぼさでひどくだらしないし、出会ってすぐ婚約もする。コントロール(自制)のかけらもない。アナもアナで、世の中でうまくやっていくのは大変だ。どっちも「完璧 (perfect)」じゃない。
「アナ」は「自由で率直な強い感情=エルサ」を抑え込み、そんな感情があったことさえ忘れている。世の中への扉は開いているけれど、「エルサ」への扉は閉まっている。
けれども最後は、「アナ」が「エルサ」の盾になる。「エルサ」という「自由で率直で強い感情」を認めて守ったのは、「アナ」。小さい頃に傷ついてしまった自分自身の心をみずから守った。
アナが「自分の感情をいとおしく思う」気持ちを持った場面だ。
こうやって言うと、小難しくて説教くさいんだけれど、オラフ流に言えば自分のことを「ぎゅーって抱きしめた (warm hug)」 瞬間だ。やるなあオラフ。
III. 「よくもありわるくもある」
この映画は、セリフや歌が緻密に積み上げられ、物語を読み解くキーワードがちりばめられている。ここまでで書き切れなかった部分を、少し説明してみる。
キーワードは、「理想」、「FIX」、「よくもありわるくもある」、「Put 'em together, it just makes sense」。
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といいつつその前に、ちょっとたとえ話を。
「理想」を持つのは大事なことだけれど、「今の自分は理想じゃないからダメだ」、「ここでは自分らしく生きられない」、「このひとは自分を認めてくれない」という気持ちが強いと、逆にしんどい。
理想の自分や理想の環境を求めすぎてしまうと、今の自分に満足できず、自分を認められず自分を好きになれない。「今の自分」は「完璧な理想の自分」とはほど遠いので、うまくいかないときに落胆も大きいし、自信も持てない。そうなると、「今、その時、その場所の自分」にはマイナス点しか付かない。どこにいても自分の居場所がないように感じてしまう。それって結構しんどいことだ。
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この物語には、そんなことがキーワードとして何度も登場しているようにおもうのだ。
Perfect (完璧) じゃないものを Fix して(直して) いく
—❖ Perfect :完璧であることの苦しさ
エルサは完璧であろうとした。Let it Go の英語詞はこうなっている。(訳は、ディズニーがYoutubeに公開しているもの。)
Be the good girl you always have to be /いつも素直な子で
Conceal, Don't feel, Don't let them know /感情を抑えて隠さなければ
最後には、That perfect girl is gone (理想の娘はもういない) と歌う。
英語版を歌う Idiana Mensel は、good girl, perfect girl どちらにも強いアクセントを置いて歌っている。
エルサが完璧であろうとして苦しんできたことから解き放たれ、生き方を大きく転換する場面。
—❖ Fix :手直しすればいい
クリストフも完璧じゃない。トロールたちが、クリストフをアナに彼氏として売り込むときに歌うのは、「Fixer upper」。
Fixer Upperとは手直しが必要な物件という意味。日本語のサントラでは「愛さえあれば」というタイトルで、「完璧じゃない」という訳がついている。
FIXというキーワードはアナも言っている。
アナは、氷の城に閉じこもったエルサに 「We can fix this hand in hand」と呼びかける。
今の状態が完璧じゃなくても、手直しして、FIX すればいい。
そう、バラバラに壊れてもまたくっつけて元に戻すオラフのように。
よくもわるくもある。foul and fair.
最初は気付かなかったのだけれど、砕氷職人たちは、最初っからこう歌っていた。
This icy force both foul and fair has a frozen heart worth mining!
(※日本語の歌詞は「きれいで固い」)。
※ foul, fair=野球でいうファールとフェア。シェイクスピアのマクベスで「Fair is foul, and foul is fair」というセリフもあり、対になる言葉。
氷の力は、「よくもありわるくもある」。 (foul=汚い、悪い。fair=きれい、よい)。
真逆に見えて対立している「ふたつ」は「ひとつ」のものの別々の面、“「ひとつ」のものには「ふたつ」の側面がある”というテーマは最初から示されていた。
そして、氷の力の中にある凍った心 (frozen heart) は、掘り出す価値がある (worth mining) と。
オラフが一番、「もっといい」。
オラフは最後、自分だけの雪雲を手に入れる。夏と冬が一緒になる。
エルサの力を使っているので、ずるーい!と言いたい気もするけれど、これによってオラフは自分の行く場所すべてが夏でもあり冬でもある。溶けることなくそこにいられる。
どこにもない「理想の場所」を求めてさまようのではなく、自分のいるところすべてが「自分の居場所」になる。
「The hot and the cold are both so intense. Put 'em together, it just makes sense」。(オラフが歌う『In Summer』)
“真逆”にみえる「ふたつ」が折り合えたらとってもいいのだ。
自分の中にある“別々”な部分をぎゅーって抱きしめたら、もっといい。
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おまけ。
そうそう。最後にアレンデール王国は、気持ちのよい夏なのにスケートも出来る国になっちゃう。オラフよりも「おとぎ話的」でずるい(笑)。というか、ラストシーンのアレンデール王国こそ、いろんな価値が同時に存在することの出来る「夢の国=ディズニーランド」なんだと示しているようでもあったりして^^。