つながるひとりぼっち。幾つもの世界が共鳴しあう「幕が上がる」。
映画「幕が上がる」の感想。
何ものでもない何か、ひとりぼっちの不安と寂しさが描かれ、それでいて共鳴しあって繋がっていく様が丁寧に描かれていた。他の人の事なんて分からないから、ひとりぼっちだから、繋がろうとする。そうやってわかり合っていく。
スクリーンの中の彼女たちが物語としてもアクターとして成長していくことに、見ているこちらも共鳴していく映画だった。
原作の平田オリザさんが昔テレビで「本当の自分を探すよりも、場面に応じて仮面を付け替える、良い意味で演技が出来るようになることを目指した方が、楽に生きられる、コミュニケーションできるようになるのでは」と言ってたことが印象に残っている。
そんなこともあったし小説がとても素敵だったもあって、ももクロのファンだけれど出来るだけフラットに見ようとしたつもり。
書いていてカッコ付けたくなる癖がどうにも抜けないのですが^^;、読んで何かしら感じたらtweet、ブクマ、コメントなどいただけると励みになります。m(_ _)m
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終わりが始まり
なによりこの映画の終わり方が好き。物語の続きを見たくなる。
余韻というとも違う気がする。これから未来が始まっていくんだ、幕が上がったんだなあ、と。
映画の中にいる人物は、この後もこの人生を生きていくんだと感じた。
自分が埋めていく物語。
登場人物たちが空を見上げるシーンがあるんだけれど、空はスクリーンに映らない。
そこから先は自分で見なよと言いたいかのようだった。それがきっと、この映画が自分と重ね合わせられる要素になっていんじゃないだろうか。
自分が見てきた空、これから自分が見る空を、観客が思い描きながら見ることができる。
スクリーンの中で終わらない広がりってこういうことなのかもしれない。
先輩の写真を撮るとき、さおりが先輩に言われる言葉。明美がいろんなことに気を遣っている場面など、ほんの些細な仕草や言葉があることで、そこにいる人物のキャラクターがよく分かった。
東京の街でユッコが泣いてしまう場面、即座に がるる に茶々を入れられて余韻もなく移り変わるところも、ユッコの気持ちを考える余白があった。
滝田先生が授業の最後で「残念、ここまで」という場面がある。まだ伝えたい思いがあるのだということが見えてくる。全てを伝えられなかったという想いを感じるので、余白を埋めていきたくなる。その人を知りたくなるし繋がりたくなる。
言葉や仕草一つひとつの人物描写が緻密だから、その人がそこに存在して生きているし、余白が生まれるんだろう。
何ものでもない何か。不安と期待
何ものでもない何かであること、何にでもなれることの不安と期待。
「宇宙はどんどん膨らんでいく。それ故みんなは不安である」、劇中で紹介される谷川俊太郎の詩。
「だから私たちは宇宙の果てにはたどり着けない」と滝田先生が言う。
“何ものでもないってことは何にでもなれる”って事なんだから希望に満ちあふれているはずだけど、こんな不安なこともない。その瞬間はなんでもないんだもの。
自分の話をすれば、希望ではなく不安を感じてしまう方だ。
学生時代、興味のあるものをはっきりと持っている人が羨ましかった。脇目も振らずにのめり込むことができたらと思っていた。
それだけ考えて生きて行ければ楽なんじゃないかとさえ思っていた。目標に向かって突き進む人への憧れと敗北感だったんだろう。
そんな思いが払拭されてきたのはもう2回目の成人式を迎えたくらいだったかもしれない。
そんな気持ちを思い出して見ていた。でも、何かになっていけること、変わっていけることは楽しいことだというのも感じる事ができた。
モノローグ:口に出せない想い。
序盤ではさおりのモノローグが多い。説明しすぎなんじゃじゃないかと思うくらいだった。
好きなものはあるけれど心底打ち込むわけではなくて何かにいらだっていたさおり。きっと、何ものでもない自分への不安が、不満やいらだちに姿を変えていたんだろう。
あのモノローグは、彼女の口に出せない想い。
けれどいらだちを抑えこんでいるのが臨界に達して、人にぶつけてしまう時が来る。
そしてそのあと、部員の演技に対してさおりが感じている事を吉岡先生が言葉にする場面がある。そこでさおりは自信を持ったんだとおもう。
というより、自分の感じ方を誰かに認めてもらって初めてその思いの存在を自分自身が認められたんじゃないだろうか。「ああ、これって思ってていいことなんだ」って。
ひとりぼっちの想いがひとりぼっちじゃなくなった瞬間が積み重なって、人とつながっていこうと思えるんだろう。
不満を持っているって事は何かしら理想や目標を持っていることなんだけど、進む先がおぼろげなときはそんな前向きな気持ちになんかなれない。苛立ちに飲み込まれてしまいそうになる。
さおりはずっと「何かにいらついていて毒づいて」、言わずにきてた。口に出せないことを、お母さんに「損な性格だよ」って言われてた。
伝えない想い。
けれど、後半になるにつれさおりのモノローグは減っていった。
「届けるつもりもありません。だけど手紙を書いています」。最後の方で、さおりは届けるつもりのない手紙を書く。
言いたいことを言えずに抑えるんじゃなくて、言いたいことはあるけど言うかどうかを自分で決める。
伝えられないのではなく、伝えない想い。
さおりはそういう折り合いが出来るようになったんだろう。ひとつ大人になったんだなあという場面だった。
つながるひとりぼっち。
明美とさおりが2人きりでいる場面、そこだけが特別の場所になった感じがした。
なんともいえない空気感があった。
合宿で演劇の練習をしている場面の結束感が伝わってくるから、彼女たちの様子を覗き見ている気分になっていた。
でもこうやってみんなが力を合わせていく部活を描いていながらも、「寂しさ」を感じることができた映画でもあった。
吉岡先生も一人で世界に立つことを選んでいる人だった。
だから、プラットホームでの中西とさおり二人の場面が印象的だった。
ジョバンニを演じるユッコのピンとした背筋と声が、その寂しさをより感じさせてくれた。
「銀河鉄道の夜」でいう天ノ川のように、遠くから見ると一つに集まって見える星々は、一つひとつ別々の星。彼女たちもそうなんだということを感じながら見ていた。
最後の最後でアイドル映画
本広監督は、“アイドル映画が不遇な今チャレンジしたい”、というようなことを言っていた。
エンディングで「走れ!美術室編」が流れ、撮影中のももクロが映る。ああ、そういえばこれはももクロが出ているアイドル映画なんだなあってことを思い出した。
現実に戻されるようで不思議な気持ちだった。なんだか別の感情が流れ込んできた。現実って何だ?と言う気もするけど。
本広監督は、この映画は映画の時系列に沿って「順撮り」したと言っていた。それによって役者が成長する姿をドキュメンタリー的に見せることが出来る手法だそう。
確かに弱小演劇部が自信を付けていく様とももクロが女優として変化していく様がシンクロしていた。
アイドル映画の部分を排除して、しっとりと描くこともできる映画だと思った。けどちゃんとアイドル映画であったことに、監督の覚悟を感じた。
現実と虚構、幾つもの世界が共鳴する
小説を好きになったこともあったので、ももクロが出ているとはいえ出来るだけフラットに見ようとした。 けれど否が応でもももクロのストーリーに重ね合わせてしまう。
リーダーになりたかったわけじゃなく、悩みながらやってきた夏菜子(さおり)。
一番最後にメンバーになって打ち解けるまでにいろんなことがあった杏果(中西)。
自分のポジションを取られるんじゃないかと嫉妬していた詩織(ユッコ)。
一番後輩だけれど場の全体を見ているあーりん(明美)。
ムードメーカの がるる(れに)。
路上から始まったライブはいまや数万人が入る大きなライブ会場に。
ももクロを知らないで見てみたいとも思った。でもこれこそが、アイドル映画なのかも。アイドルが出ている以上、ファンからすれば俳優として完全に“透明”には見ない。
逆にそれがアイドルの成長物語も含めて、いろんなものを重ねて見ることが出来る。
演劇部の成長と、ももクロの女優としての変化。アイドルグループももいろクローバーZとしての歩み。ももクロメンバーと登場人物の共通点。
それと、自分の世界と映画の世界。
同時に幾つもの世界がシンクロしあっていた。音が共鳴して大きくなるようなもんだろうか。
伝えたいものがあって繋がっていく過程は、そのままももクロの体験なのだとも思った。
ももクロを知らないほうが素直に映画の世界に入り込めるかもしれない。
けれど、ももクロを知っているとさらに別の世界がシンクロして、より虚構と現実が入り交じっていて、幾つもの世界が共鳴し合う、とても不思議で気持ちの良い映画(ファンタジー)だった。